公民権運動
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公民権運動(こうみんけんうんどう、American Civil Rights Movement)とは、1950年代から1960年代にかけてアメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人)が、公民権の適用を求めて行った大衆運動である。
目次 |
[編集] 背景
「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」も参照
[編集] 人種差別の合法化
かつてヨーロッパから移民として渡って来た白人が多数を占め、その多くが奴隷としてアフリカ大陸などから連れてこられていた黒人に対する奴隷制度や差別が「合法」とされていたアメリカ合衆国では、1865年に終結した南北戦争以降に、連邦議会が奴隷制度廃止や公民権の付与、黒人男性への参政権の付与を中心とした3つの憲法修正条項を追加したことで、黒人奴隷の「解放」が実現したことになっていた。
しかし、1883年の公民権裁判での最高裁の判断は、「アメリカ合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与える」とした「修正第14条は私人による差別には当てはまらない」とし、個人や民間企業によって公民権を脅かされた人々を保護しなかった。特に、このときの判決は、公共施設での黒人への人種差別を禁止した1875年に制定された公民権法のほとんどを無効にしてしまった。さらに1890年にルイジアナ州は、黒人と白人で鉄道車両を分離する人種差別法案を可決した。
これに対してルイジアナ州ニューオーリンズの反人種差別団体が「プレッシー対ファーガソン裁判」と呼ばれることになる裁判を起こしたものの、1896年5月18日に最高裁判所は、「分離すれど平等」の主義のもと、「公共施設での黒人分離は人種差別に当たらない」とする、事実上人種差別を容認する判決を下した。
[編集] 「ジム・クロウ法」
この「プレッシー対ファーガソン裁判」の判決を元に、20世紀初頭には南北前に黒人奴隷を合法としていたジョージア州やアラバマ州、ミシシッピ州などの南部諸州で、白人による黒人に対する「人種分離(=人種差別)」が合法的に進められた。さらに、この判決を受けて、南部諸州のみならずアメリカ国内では依然として黒人に対する蔑視や公然の差別が大手を振って続くこととなった。
これらの「人種分離法(=人種差別法)」は一般に「ジム・クロウ法」と呼ばれ、交通機関やレストラン、学校やトイレ等の公共機関で白人が黒人を分離するもので、このほか、教育の機会が与えられなかったことから識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされてきた。
また、これらの州においては、クー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、同じような志向を持つ警察による不当逮捕や裁判所などによる冤罪判決などが多発した。
[編集] NAACPの奮闘
1909年2月12日に、社会学者のW・E・B・デュボイスとアイダ・B・ウェルズらの黒人と白人有志によって設立された「アフリカ系アメリカ人委員会」を前身とした全米黒人地位向上協会(NAACP)は、設立以降これらの深刻な人種差別に立ち向かった。
NAACPによる活動は次第にその裾野を広げて行ったものの、短期間のうちには人種差別法を掲げていた南部諸州のみならず、アメリカの白人の間に深く根付いた黒人や先住民、アジア系などの有色人種に対する人種差別意識、そして人種差別法を改めることはできなかった。しかしその後も地道かつ堅実な運動を通じて、人種差別解消に対する戦いを続けて行くこととなる。
[編集] 第二次世界大戦
さらにアメリカが「自由で平等」な、「民主主義の橋頭保」を自称して参戦した第二次世界大戦では、多数の黒人兵が下級兵士として参戦し(軍隊内においても人種差別が行われていたため、黒人が士官となることは許されておらず、海軍航空隊および海兵隊航空隊から黒人は排除されていた上、戦線で戦う場合も黒人のみで編成された「黒人部隊」としての参戦しかできなかった)、戦闘で多数の犠牲を出し連合国軍の勝利に大きな貢献をした。
しかし、アメリカ国内における深刻な人種差別や、南部諸州における黒人差別を目的とした人種差別法は、第二次世界大戦終結後の1950年代になっても全く改められる気配はなかった。
[編集] 運動と事件
[編集] モンゴメリー・バス・ボイコット
1955年12月1日にアラバマ州モンゴメリーで、黒人女性のローザ・パークスが公営バスの白人専用座席に座ったことに対して白人の運転手が退去を命じたが、パークスがこれを拒否したため、「人種分離法(=公共の場における人種差別を合法とする法律)」違反で投獄される事件が起きた。
この事件に抗議して、マーティン・ルーサー・キング牧師らがモントゴメリー市民に対して、1年にわたるバス・ボイコットを呼びかける運動を展開した。この呼びかけに対して、黒人のみならず運動の意義に共感する白人もボイコットに参加し、後にこの運動は「モンゴメリー・バス・ボイコット」と呼ばれることとなる。
この運動は全米に大きな反響を呼び、1956年には、合衆国最高裁判所がバス車内における人種分離を違憲とする判決を出すと、アラバマ州をはじめとする南部諸州各地で黒人の反人種差別運動が盛り上がりを見せた。
[編集] 活動の形態
これらの運動は、黒人をはじめとする有色人種が、アメリカ合衆国市民(公民)として法律上平等な地位を獲得することを目的としていたので、公民権運動と呼ばれるようになった。
運動においてはキング牧師らを中心とした聖職者が著名な指導者となったが、数多くの組織やアメリカ先住民や日系アメリカ人などの他の有色人種や白人を含む個人が参加して行われたもので、運動の形態も、訴訟、街頭でのデモからレストランでの座り込みに至るまで多岐に渡った。
これに対して多くの州における警察当局は「治安維持」を理由にデモ隊を過酷に弾圧するなどしたため、これに反発した黒人らによる大規模な暴動に発展することもしばしばであった。
[編集] リトルロック高校事件
また、ローザ・パークス逮捕事件と「モンゴメリー・バス・ボイコット」に先立つ1954年には、公立学校における人種隔離を違憲としたブラウン対教育委員会裁判判決が最高裁において下され、これ以降、全米の学校において長年行われていた人種隔離が廃止されていくこととなった。
しかし1957年には、ブラウン対教育委員会裁判判決以降も白人しか入学させていなかった、アーカンソー州立リトルロック・セントラル高校への9人の黒人学生の入学を、再選のための白人票稼ぎを目論んだオーヴァル・フォーバス州知事が拒否し、「白人過激派による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖する」という理由をつけて州兵を召集し学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件が起きた。
公民権運動が全米規模で盛り上がりを見せる中に発生したこの事件に対して、反人種差別運動家だけでなく、白人が多くを占めるアメリカ国内の世論も反発を見せた。
これに対してドワイト・D・アイゼンハワー大統領はフォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令したが、この命令が無視されたため、急遽アイゼンハワー大統領はアメリカ陸軍の第101空挺師団を派遣し、入学する黒人学生を護衛させた。その後9人の黒人学生は無事に入学したが、白人学生からの執拗ないじめに遭うことになった。しかし8人の学生が卒業を果たした。
[編集] ワシントン大行進
これらの1950年代に起こった人種差別を元にした事件と、それに対する世論の反発は公民権運動家を力づけ、公民権運動はキング牧師らの呼びかけに応じて、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の参加者を集めた1963年のワシントンD.C.における「ワシントン大行進」で最高潮に達した。
この「ワシントン大行進」には、シドニー・ポワチエやマーロン・ブランド、ハリー・ベラフォンテやチャールトン・ヘストンなどの世界的スターも数多く参加するなど、アメリカ国内のみならず世界各国からの注目を浴びた。この時、キング牧師がワシントン記念塔広場で行った「I Have a Dream」の演説は、アメリカの歴史に残るものとして有名である。
[編集] 成果
[編集] 公民権法制定
1960年に発足したジョン・F・ケネディ政権は公民権運動には比較的リベラルな対応を見せ、南部諸州の人種隔離法(一般にジム・クロウ法と総称される)を禁止する法案を次々に成立させた。しかしケネディ大統領は1963年11月にダラスで凶弾に倒れてしまい、リンドン・B・ジョンソン副大統領がその後を継ぐこととなった。
ジョンソン大統領は南部のテキサス州を地盤に持つ「保守派」として知られたものの、大統領就任以前より人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示し公民権法の制定に積極的であった。実際にジョンソンは1963年11月に大統領に就任すると、かねてより定評のあった議会への影響力を最大限に働かせ、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(「人種差別主義」という意味での)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた[1]。
その結果、世論の高まりもあり議会も全面的に公民権法の制定に向け動き、1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。
なお、公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由に、キング牧師に対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることになった(受賞は12月10日)。これは史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。キング牧師は「受賞は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。
[編集] 制定後の変化
その後ジョンソン政権下では積極的に政府が後押しすることで黒人の社会的、経済的地位を向上させるために、役所や企業、大学に黒人を優先的に(若しくは白人と同数)採用することを義務付けるアファーマティブ・アクション政策が取られた。
なお、1965年からアメリカが本格参入したベトナム戦争では、アメリカの軍隊史上初めて「黒人部隊」が編成されず、また黒人が士官として配属され、白人の下級兵士に対して指揮を執ることとなった。
[編集] その後の反人種差別運動
しかしアメリカ国内における白人による有色人種への人種差別感情はその後も収まらず、公民権法制定後の1965年3月5日には、アラバマ州セルマで「血の日曜日事件」と呼ばれる、白人警官による黒人を中心とした公民権運動家への虐殺事件が発生した。
一方、黒人による反人種差別運動は、公民権法制定以降もなくならない人種差別への悲観と、非暴力主義を貫いたキング牧師の暗殺(1968年)によって、平和的・合法的な反差別運動から過激な運動(1965年に暗殺されたマルコムXの影響が強いとされる)へと変化していく。
キング牧師の暗殺直後、全米125の都市でいっせいに暴動が発生し、トリニダード・トバゴ生まれのストークリー・カーマイケル率いる急進派の学生非暴力調整委員会(SNCC)や、共産主義の影響を受け、都市部のゲットーにおける自衛闘争の開始を主張したブラックパンサー党、黒人による独立国の樹立を目指した新アフリカ共和国(Republic of New Africa)といった過激派の政党が現れ、闘争を継続したが、1970年代中頃になって運動は沈静化した。
[編集] 評価
公民権法の制定から40年以上が経ち、アフリカ系アメリカ人の血をひいたバラク・オバマが2009年1月に大統領に就任するなど状況の改善は見られるものの、全米で人種差別感情を元にした白人による有色人種に対する暴力事件や冤罪事件は数多く起こっており、1990年代に至っても「ロドニー・キング事件」のような事件が起きるなど、いまだにアメリカ国内において、アフリカ系アメリカ人をはじめとする少数民族に対する人種差別は根強く残っている。
この様な状況に対して、NAACPなどの反人種差別団体は人種差別の解消に向けて戦い続けることを余儀なくされているが、公民権法の施行により法的側面からの人種差別撤廃を前進させた事は、アメリカにおける人種差別撤廃において大きな進歩をもたらしたと国内外から高い評価を受けている。
[編集] 脚注
- ^ 「クロンカイトの世界」ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳(TBSブリタニカ 1999年)
[編集] 参考文献
- [1]McAdam, Doug. Political Process and the Development of Black Insurgency, 1930-1970, Chicago: University of Chicago Press. 1982
[編集] 関連項目
[編集] 人物
[編集] 組織
[編集] 映画
- 『ミシシッピー・バーニング』(1988年)
- 『ドライビング Miss デイジー』(1989年)
- 『マルコムX』(1992年)
- 『ザ・ハリケーン』(1999年)その他
[編集] 外部リンク
- 公民権運動・史跡めぐり: イントロダクション(日本語。@ "Studio BE" Japanese Home Page)
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