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小泉純一郎

1/47

出典: フリー百科事典『)』

日本の旗 日本の政治家
小泉 純一郎
こいずみ じゅんいちろう
小泉純一郎
生年月日1942年1月8日(68歳)
出生地神奈川県横須賀市
出身校慶應義塾大学経済学部卒業
前職政治家秘書
現職国際公共政策研究センター顧問
所属政党自由民主党
称号経済学士(慶應義塾大学・1967年
親族小泉又次郎祖父
小泉純也
井料克己(従兄
小泉進次郎二男

内閣第3次小泉内閣
第3次小泉改造内閣
任期2005年9月21日 - 2006年9月26日

日本の旗 第88代 内閣総理大臣
内閣第2次小泉内閣
第2次小泉改造内閣
任期2003年11月19日 - 2005年9月21日

日本の旗 第87代 内閣総理大臣
内閣第1次小泉内閣
第1次小泉第1次改造内閣
第1次小泉第2次改造内閣
任期2001年4月26日 - 2003年11月19日

内閣第2次小泉改造内閣
任期2005年8月8日 - 2005年8月11日

日本の旗 第132代 外務大臣
内閣第1次小泉内閣
任期2002年1月30日 - 2002年2月1日

その他の職歴
日本の旗 第81代 厚生大臣
1996年11月7日 -1998年7月30日
日本の旗 第55代 郵政大臣
1992年12月12日 -1993年7月20日
日本の旗 第70代 厚生大臣
1989年6月3日 -1989年8月10日
日本の旗 第69代 厚生大臣
1988年12月27日 -1989年6月3日)
日本の旗 衆議院議員
1972年 -2009年7月21日
  

小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年昭和17年)1月8日 - )は、日本政治家。国際公共政策研究センター顧問

衆議院議員厚生大臣(第697081代)、郵政大臣第55代)、内閣総理大臣(第878889代)、外務大臣第132代)、農林水産大臣第38代)などを歴任した。内閣総理大臣の在任期間は1,980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作吉田茂に次ぐ第3位。

目次

[編集] 概要

福田赳夫書生を経て、1972年第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来連続当選を果たす。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。

竹下政権にて厚生大臣として初入閣を果たし、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。森喜朗の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作吉田茂に次ぐ第3位。2009年の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、二男小泉進次郎を後継指名し政界を引退した。現在は、奥田碩田中直毅らとシンクタンク「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務める。

[編集] 経歴

[編集] 出生から初当選まで

小泉と家族

1942年神奈川県横須賀市に政治家小泉純也と芳江の長男として出生。母方の祖父小泉又次郎第2次若槻内閣逓信大臣を務め、若い頃に全身に「昇り龍」の入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった[1]。父純也は戦後に一時公職追放となるが、政界復帰して防衛庁長官を務めた。

神奈川県立横須賀高等学校慶應義塾大学経済学部を卒業して、ロンドン大学に留学。1969年8月に父が急死したため帰国。

同年12月、亡き父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。

福田赳夫書生を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝四時に起床した。五時半の電車に乗って二時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った[2]

1972年の衆議院選に向かう過程で、母親とともに地元の政財界の顔役を訪れ、竹内清(元博徒)に選挙対策本部長への就任を懇願(こんがん)した。この竹内の力で、1969年時の選挙の時に注目を集めた小泉の女性問題に関する中傷はピタリと止んだ。[3]

1972年12月、第33回衆議院議員総選挙で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。清和会(福田派)に属し、後に首相秘書官となる飯島勲秘書となった。また、同期の山崎拓加藤紘一と懇意になり、YKKと呼ばれることとなる。

[編集] 衆議院議員

1979年第2次大平内閣大蔵政務次官に就任した。

大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。

1978年に福田赳夫夫妻を媒酌人にエスエス製薬の元会長泰道照山の孫宮本佳代子と結婚し[4]、その間に3人の子供をもうけたが、1982年に離婚[5]。「離婚するのは、結婚の10倍のエネルギーが必要だ」として、以後は独身を通している(家族構成を参照)。これにより、後に小泉が首相に就任した際は離婚歴を持つ初の首相となることになる。

1988年竹下内閣改造内閣厚生大臣として初入閣し、就任早々に厚生年金支給年齢を60歳から65歳に引き上げた。

1989年リクルート事件竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として「小選挙区制の導入」が叫ばれた際、小泉はこれに強く反対し、推進派の羽田孜と対立した。

1991年、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、「海部続投阻止」「経世会支配打倒」を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、海部内閣は機能不全に陥り、海部は総裁選不出馬に追い込まれた。

後任の総理総裁に宮澤喜一が就任すると、小泉は1992年宮澤内閣改造内閣郵政大臣に就任する。就任会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。

国連カンボジア暫定機構(UNTAC、United Nations Transitional Authority in Cambodia)に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、宮沢改造内閣の郵政相として閣議の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」[6]、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」[7]等と語り、自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。

また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている[8]。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした[9]

1993年、羽田孜・小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。なお、総選挙後に日本新党細川護熙を首班とする連立政権が成立、自民党は野党に転落した。なお、宮澤の後任となる自民党総裁には河野洋平が就任した。

[編集] 総裁選への挑戦

1994年、社会党委員長の村山富市を首班とする自社さ連立政権で自民党は政権に復帰し、野中広務らの平成研究会(旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。

1995年参議院議員選挙で自民党は新進党に敗北、河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、結局、小泉が自ら出馬することを決めた。

すでに大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だったが、それでも若手議員のグループが小泉を推した(中川秀直山本一太、後に首相になる安倍晋三もいた)。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。

1996年に村山が首相を辞任し、橋本内閣が成立すると、小泉は第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。

1997年、厚生大臣時代に厚生省幹部と参議院厚生委員会理事と食事を取っていたが、村上正邦自由民主党参議院幹事長が円滑な参議院審議を求める参議院理事のスケジュール管理の立場から、村上への事前通告がなく参議院理事を動かしたことで参議院スケジュール管理に支障を来たしたことを理由に反発した。村上が参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、厚生省幹部の出席差し止めという形で小泉厚相に反発。YKKの盟友だった加藤紘一幹事長を中心とする党執行部は異常事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。村上更迭という強行案には、党内連立反対派(保保連合派)らの反発を刺激を党執行部が恐れたため、小泉厚相に対して村上参院幹事長に全面謝罪させることを提案、小泉が村上に謝罪したことで収束した(この事件が小泉にとって、参議院の影響力の大きさを実感する出来事であった。2001年に首相になった時、トップダウン方針と言われながらも、参議院の実力者であった青木幹雄参議院枠を初めとする一定の配慮を示す原因になったと言われている)。

1998年参議院議員選挙、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、小渕恵三梶山静六と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持を得られず、仲間の裏切りにもあい、所属派閥の清和会すらも固めることもできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。敗北後の清和会の会合では、泣いている小泉の映像が残っている。

[編集] 加藤の乱

加藤の乱」も参照

2000年、小渕が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。小泉は清和政策研究会(森派)の会長に就任した。

この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森内閣は森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、森の失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。森内閣の支持率は2000年11月には18.4%を記録し、これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一山崎拓が公然と森退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は森支持の立場を明確にし、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。

加藤はマスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けたが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派(宏池会)が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。また、森の求心力も若干ではあるが見直されることとなった。

だが、この後も森内閣の支持率は低迷。2001年2月に森は首相を退陣した。

[編集] 小泉旋風

詳細は「小泉旋風」を参照

森の退陣を受けた2001年4月の自民党総裁選に、橋本龍太郎麻生太郎亀井静香と共に出馬。もし敗れれば総裁選で3回負けることになり、政治生命にも関わるとも言われたが、清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子田中角栄の長女)の協力を受けた。

最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般党員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。こうした中で、次第に2001年7月に控えた参院選の「選挙の顔」としての期待が高まる。そして小泉は予備選で地滑り的大勝をし、途中で亀井の支持も得、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。4月26日首班指名選挙で第87代内閣総理大臣に就任した。

[編集] 内閣総理大臣

2006年6月29日、小泉純一郎とアメリカ合衆国大統領ブッシュ

小泉は組閣にあたり、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」と呼ばれる流れを作った。言い換えると、従来の派閥順送り型の人事を排したのである。少数派閥の領袖である山崎拓を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会(橋本派)からは党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃行政改革担当大臣に、民間から経済学者竹中平蔵経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。

「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団住宅金融公庫交通営団など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。

発足時(2001年4月)の小泉内閣の内閣支持率は、最も高かった読売新聞社調べで87.1%、最も低かった朝日新聞社調べで78%を記録。これは戦後の内閣として歴代1位の数字である。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。この小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

終戦の日8月15日靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。翌年以降も、毎年靖国参拝を行った。2006年には公約であった終戦の日における参拝を実現した。

9月11日米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。

国際情勢が緊迫する中、外務省は、田中外相が外務官僚や元外務政務次官の鈴木宗男議員と衝突し、機能不全に陥っていた。小泉は2002年2月に田中外相を更迭した。人気の高い田中の更迭により、80パーセントを超える異例の高支持率であった小泉内閣の支持率は50%台にまで急落した。田中は大臣更迭後の同年8月に秘書給与疑惑が浮上し議員辞職した。

2002年9月9日、訪米して、9月10日には外交問題評議会で講演。「私は、政治的意思をもって首脳同士が話し合うことが重要と考え、日本の総理として初めて訪朝し、金総書記と会談することとしました。」と、後の訪朝について述べている。

小泉は、2002年9月に電撃的に北朝鮮を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、拉致被害者のうち5名を日本に帰国させることを承認した。しかし、残りの拉致被害者のうち8名が死亡・1名が行方不明とする北朝鮮の回答に対し、拉致被害者家族は怒りを隠さず、交渉を終え帰国した小泉を面罵する場面もあった。

2002年9月30日小泉改造内閣が発足。柳沢伯夫金融大臣から更迭して、竹中平蔵に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。

2003年3月、アメリカはイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦の数日前にアメリカ支持を表明し、野党やマスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を守った。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。

9月に行われた自民党総裁選平成研究会藤井孝男運輸大臣を擁立して小泉おろしを図ったが、自民党参議院幹事長であった青木幹雄がこれに与せず派閥分裂選挙となり、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった野中広務は10月に政界を引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、清和政策研究会(森派)が党の主導権を掌握することになる。

2003年9月、自民党総裁選で再選された小泉は小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選わずか3回の安倍晋三幹事長に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では絶対安定多数の確保に成功。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足した。

2004年1月、陸上自衛隊イラク南部のサマーワへ派遣した。しかし、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(地元部族長の仲介によるものとされる)。

2004年5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、平壌で金正日総書記と会談し。北朝鮮に対する25万トンの食糧や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。この会談で新たに5名の拉致被害者が日本に帰国した。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。

2004年6月、2003年6月に制定された有事関連三法に基づいて、「米軍と自衛隊の行動を円滑かつ効果的にする法制」、「国際人道法の実施に関する法制」、国民保護法等の有事関連七法(有事法制)を成立させた。

2004年7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。この責任をとって安倍幹事長が辞任し、武部勤が後任となった。

小泉の最大の関心は、持論の郵政民営化にあった。参院選を乗り切ったことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、4月に開設した郵政民営化準備室を本格的に始動した。

[編集] 小泉劇場

詳細は「小泉劇場」を参照

2005年、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めて気勢を上げた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。反対派はこれに激しく反発し、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。

衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が否決されれば直ちに解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そんな無茶はできまいと高をくくっていた。

2005年8月8日参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宜伸農林水産大臣罷免、自ら兼務して解散を閣議決定し、同日小泉は、憲法第7条に基づき衆議院解散を強行した。

小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を郵政解散と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより9月11日の投票の結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327の議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれることになる。

2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、89代内閣総理大臣に就任する。10月14日特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回った。これにより小泉の長年の悲願はようやく実現された。

[編集] ポスト小泉

詳細は「麻垣康三」を参照

2005年10月、第3次小泉改造内閣が発足。ポスト小泉と目される麻生太郎外務大臣に、谷垣禎一財務大臣に、安倍晋三が内閣官房長官に起用された。

2006年8月15日終戦の日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社参拝した。

2006年9月20日自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日 に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。新総理には安倍晋三が指名された。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後3位の長期政権となった。

[編集] 総理退任後

総理退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの反響になる。

小泉は院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻っていない。岸信介田中角栄中曽根康弘竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、町村信孝が継承)。

国民人気は根強いが、公的露出を控えることでこの人気を利用する動きは見せていない。これは小泉が露出することによって、安倍首相(当時)より目立ってしまうことを避けるためとされた。国民人気が根強いため、時々発せられるさりげない一言が逆に世間に大きく注目されることがある。

「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定してきた。2007年9月12日に、安倍晋三首相自民党総裁)が辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる小泉チルドレンたちから小泉に総裁選立候補の強い要請があったが、本人は「100%出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)[10][11]

2006年以降は8月15日終戦の日)に靖国神社参拝を実施している。

2007年9月、安倍晋三総理総裁が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区(衆議院東京5区)にてかつて岐阜1区で造反した野田聖子議員への刺客だった佐藤ゆかりの応援演説を行った[12]

[編集] 議員引退

麻生内閣が成立した翌日の2008年9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院選挙に立候補しない意向を明らかにした。総理経験者が総理退任後の衆院選に立候補せずに引退するのは池田勇人や小渕恵三の病気退任を除けば戦後初めて。

ただ、国会の外での政治活動は継続すると表明している。自分の選挙区の神奈川11区には自らの私設秘書である次男の小泉進次郎を後継として立候補させ、進次郎は当選した。

[編集] 政治手法

小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。

作家の高村薫は『文藝春秋』(2001年8月号)に「宰相小泉の空虚な語法」という評論を書き、「分かりやすいと言われる小泉語法の特徴は、『簡潔』『断定』『すり替え』『繰り返し』の四つだ」と指摘している。そして、「文節の短い、簡潔な言葉は論旨を単純化する。単純は『断定』を生みがちであり、簡潔にはいかない複雑で微妙な事柄については、『繰り返し』や『すり替え』が起こり、最後はあいまいなままに置かれる」と結論づけて、「国会の議論が小泉語法によって歪められた」と嘆息している。[13]

[編集] 政策

[編集] 政権公約となった政策

[編集] 郵政民営化

2005年政府国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法が可決された。

[編集] 靖國神社への8月15日(終戦の日)参拝

靖国神社問題」も参照

2001年自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。しかしながら、2001年から2005年までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する2006年には8月15日に参拝した。

[編集] タウンミーティング

詳細は「タウンミーティング 小泉内閣の国民対話」を参照

タウンミーティングの構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、電通社員へ日当10万円の払い、エレベーター係へ一日数万の払い、などといった不透明な実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱もかかっていた。

[編集] 国債30兆円枠

小泉内閣は各年度予編成において国債発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げたが、達成できたのは政権初期の2001年度と政権末期の2006年度予算の2回のみだった。

[編集] ペイオフの解禁

2001年自民党総裁選で他の総裁候補と同様にペイオフの解禁を公約に掲げた。しかし、不良債権処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。

[編集] 政権獲得後に推進した政策

[編集] 年金改革

年金制度を変革。老齢者控除廃止や公的年金等控除の縮小をした。

[編集] 医療制度改革

医療制度改革関連法案を国会で可決させ、サラリーマン医療費負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70 - 74歳で今は1割負担の人も2割負担になる。

また、2006年度の診療報酬改定では、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減したほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている。

[編集] 女系天皇容認

長い間、皇室に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置して女性天皇のみならず、女系天皇容認に向けた動きを積極的に推進した。その後、秋篠宮家における男子継承者誕生から改正議論を棚上げしたものの、根本的な問題(継承者不足)が無くなった訳ではないとして「女系の天皇陛下も認めないと、将来については皇位継承というのはね、なかなか難しくなるんじゃないかと思ってます」との見解を述べた[14]

[編集] 一内閣一閣僚

小泉は閣僚の交代に批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していたが、田中真紀子外相の更迭で原則を破り、2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに定期的に内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。

[編集] 政権運営

[編集] 内政

[編集] 外交

2005年パースシャーサミット日本国首相として参加(後部列右から2番目の人物)
  • 従来の事務協議の積み重ねの延長である外交から、首相が自らの意見を積極的に主張し首脳間の信頼関係の下で国家間の合意を取り付ける首脳外交に転換した。
  • 小泉外交は出身派閥である清和政策研究会の伝統的な親米路線に則っている。ただし、小泉首相自身がアジアのアジアやアフリカなどの国々にも積極的に訪問し、サミットをはじめ、ASEAN、APEC、ASEM、日・EU定期協議、アジア・アフリカ首脳会議などの多国間協議へも25回参加した。
  • 在任中合計51回、実数では49ヶ国延べ数81ヶ国を訪問した。また訪問先の決定も外務省を始め、関係省庁が作ったシナリオに従うのではなく、官邸が積極的に関与した。さらに多数の電話での首脳会談も行い積極的な官邸外交・首脳外交を繰り広げた。
  • 国別では、米国8回、韓国7回、ロシア4回、インドネシア4回、中国3回、タイ、マレーシア、ベトナムにそれぞれ2回訪問した。またブルネイ、シンガポール、フィリピン、ラオス、カンボジア、モンゴルなどのアジアの国々や今まで首相がほとんど訪問していなかったウズベキスタンやカザフスタン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ、サウジアラビア、エジプト、トルコなどの中近東諸国にも訪問している。
  • アジア太平洋経済協力会議首脳会議(APEC)に5回、東南アジア諸国連合(ASEAN)+日中韓首脳会議に5回、アジア欧州会議(ASEM)首脳会議に3回などのようにアジア地域の中心の多国間協議に総理として積極的に参加していた。
  • また、多くの国を訪問し多くの国際会議の常連メンバーであったため、当時のアジア各国首脳、フィリピンのアロヨ大統領や、マレーシアのマハティール首相、シンガポールのゴー・チョク・トン首相などとも非常に親しかった。
  • サミットにも6回出席の常連メンバーであり、そのつど各国首脳と多国間・二国間の会談を重ねている。そのため、アメリカのブッシュ大統領だけではなく、フランスのシラク大統領、ドイツのシュレーダー首相、ロシアのプーチン大統領、イギリスのブレア首相とも「率直に話のできる顔見知りの仲」であり、重要な案件でも首脳同士が直接電話で話をして決めることもあった[16]
  • またウズベキスタンやカザフスタンなどに対し、資源の優先的供給を受けるための資源外交・経済外交の展開を始めた。
  • 郵政民営化など米国からの要望をまとめた年次改革要望書の内容を実行に移した(ただし、郵政民営化については1970年代から主張していた)。
  • 靖国神社参拝により、中国韓国の態度を硬化させ、在任期間中は首脳会談はもとより、首相特使派遣すらできないほどまでに関係が悪化した。しかし小泉は韓国と中国が日本との首脳会談に応じなかったことを批判し、「いつか後悔することになるだろう」と発言した[17]。中国は小泉政権での日本の常任理事国入りには強固に反対の姿勢を示す様になり、さらにアメリカがイラク戦争を反対したドイツの常任理事国入りに反対したことでG4改革に反対し、日本は常任理事国入りを断念せざるを得なくなった。それにより日本では『国連分担金を削減すべき』という世論が高まった。
  • 2001年に就任以来、靖国参拝を堅持する小泉首相に対して、中国政府はすでに4年間にわたって日中間首脳の相互訪問を拒み続けてきたが、2001年に中国を訪問した小泉は抗日戦争記念館に訪問して遺憾の意を表し[18]、そこで献花を行った(日本政府首脳が盧溝橋で献花するのは初)。小泉は「靖国参拝するから首脳会談に応じないというのは、私はいいとは思っていない」と中国を批判している。2005年に遂に反日デモが起こり、同年秋に小泉が5回目の靖国参拝を果たすと、中国政府はさらに、国際会議を利用して日中首脳会談・外相会談をすべて拒否するという強硬姿勢を示した。第3国での会談も2005年4月のジャカルタで胡錦濤国家主席と実施したのが最後となっている。また2005年に呉儀副総理との会談も急遽キャンセルとなった[19]。退任後も中国との関係に亀裂が入ったままで、胡錦濤が来日を歓迎する朝食会、夕食会に小泉が参加せず、2008年に開催された北京オリンピック開会式に歴代首相の福田康夫・森喜朗・安倍晋三や都知事の石原慎太郎を招待したのに対し[20]、小泉は招待されなかった。一方中国は靖国参拝をしなかった首相と天皇・皇后に対しては友好ムードをアピールし、日本の常任理事国入りに柔軟な姿勢を見せるなど、靖国神社参拝によりアメとムチ政策をとっていることが捉えられる。
  • 靖国神社参拝を理由に2005年には韓国から日韓シャトル外交を中止を迫られ、他に竹島問題で反日感情が高まり、同年の6月には子供達が描いた反日ポスターが地下鉄駅に展示させられ際に小泉らしい絵があったが[21]、ポスターには靖国参拝をしない首相は書かれていないために小泉政権が反日感情を高ぶらせたともいえる。さらに大邱日報によると小泉が日本の終戦記念日であり光復節である8月15日に靖国神社を参拝した事で、韓国人たちの怒りは頂点に達した。こうした中、8月18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」が本格発足し、支持率回復もあって盧武鉉は同年の12月に親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定した。しかし盧武鉉の死後、小泉は駐日韓国大使館1階に設けられた盧武鉉前大統領の焼香所を訪れ献花した。
  • アメリカ同時多発テロ後にテロ対策特別措置法を制定し、アメリカのアフガニスタン侵攻では海上自衛隊をインド洋に派遣し、イラク戦争後は米国主導の「イラク復興事業」に支援活動として陸上・航空自衛隊の派遣を決定したが、派遣した国の首脳の中で唯一、現地慰問を行わなかった。
  • 戦略的外交諮問機関 対外タスクフォースを設立。
  • 日本に観光客を呼び込むYOKOSO!JAPANキャンペーンを実行。その一環として、中国人韓国人台湾人等の観光客に対するビザ免除等を行った(日本国籍保持者は相互主義により相手国でビザ免除となる)。2003年の時点で524万人であった訪日外国人旅行者数は2007年には834万人となり過去最高を記録した。
  • 北朝鮮に訪朝し金正日総書記と正式会談。北朝鮮政府は日本人拉致への直接関与を認めた。また、5人が生存して日本へ帰国(交渉継続中)。

[編集] 対外関係・外国からの評価

多くの国々および各国首脳と強い信頼関係を結び、重要な案件でも首脳同士が直接電話で話をして決めることもあった[22]

2006年6月29日ホワイトハウスにて、盟友ブッシュ大統領と握手しながら記者会見を行なう小泉首相
  • アメリカブッシュ大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めてエアフォースワンに搭乗しキャンプデービッドの別荘に招かれた。
  • 北朝鮮に対しては「対話と圧力」を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
  • 2002年のカナナスキスサミットの際、2003年のエビアン・サミットの日程とロシアのサンクトペテルブルク建都300周年記念行事の日程が重なっていたため、各国首脳がその記念行事に参加できないという悩みをプーチン大統領が抱えていると知った小泉総理は、サミットの日程を2日ずらすことを進言し、シラク大統領も了解したことから、各国首脳はサンクトペテルブルクを訪問した後にエビアンに行くという日程になった。このことに対してプーチン大統領は「感謝に堪えない。公表できないがシベリアに金正日がくるので協力できることはないか」ということとなり、その後プーチン大統領は金正日に小泉のメッセージを伝えることを約束した。その後もプーチン大統領との友好関係は続き、2003年にロシアを訪問した際には晩餐会終了後に、プーチン大統領のクレムリンの個人住居に招かれ、通訳を交えただけの2人きりで約1時間半にわたって懇談した(なおロシアでは大統領が非公式に外国の首脳と懇談するのは異例のことである)。小泉は政界引退後も露日経済協議会理事長の職にあり、また北方領土問題解決に強い関心を持っているといわれる[23]
  • 2002年のカナナスキスサミット終了後、ドイツのシュレーダー首相が政府専用機のスケジュールの調整ができずに日韓ワールドカップのドイツ対ブラジル決勝戦を見に行けないと悩んでいることを知り「だったら日本の政府専用機に乗っていったらいいじゃないか」という話になった。そしてシュレーダー首相は日本の政府専用機に乗り日本に向かいワールドカップ最終戦を観戦した。その際機内では首脳会談が持たれ、懇談の際にはサッカー談義にも花が咲いた。外国首脳が日本の政府専用機に搭乗したことはこれが初めてのことである[24]
  • 2004年マレーシアで開催された東アジアサミットの際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、当時関係が冷却化し日本との首脳会談を拒んでいた中国の温家宝首相からわざわざペンを借りて署名した。両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。
  • 北朝鮮に対しては「対話と圧力」を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
  • 靖国神社への参拝をめぐり反発する中国・韓国との関係は悪化。反日感情が強い韓国と中国、そして反日感情が穏やかな香港で起きた反日デモで自身の肖像が燃やされる事も度々あった。一方中国の圧力に屈しない小泉の態度に台湾の歴代総統の李登輝陳水扁からは支持を得ており、陳水扁は台湾新幹線開業式に招待をした。しかし台湾では外省人が多い一部の国民党からは批判があり、退任後小泉は歴代首相と違い台湾の要人との会談や個人での台湾訪問を行っていない。
  • 2002年のサミットにおいて、カナダの日刊紙『グローブ・アンド・メール』の「サミットのベストドレッサー」に選ばれた[25]
  • 2002年の国連総会において、演説終了後、演台裏手のロビーで小泉総理に挨拶を求める各国代表の列において国連職員が「こんなに長い列ができるのは珍しい」というほどの長蛇の列ができた[26]
  • 2003年の国連総会においては、演説終了後300人近くの各国代表者などが演台の後ろのロビーに並んで小泉の演説に対する賞賛の意を表した。讃辞の列は次の代表の演説も終えた頃まで続き、多くの国連関係者を驚かせた[27]
  • 2002年にシンガポール訪問時に、シンガポールのナザン大統領を表敬訪問した際、ナザル大統領から「自分の孫娘が小泉総理のファンなので一緒に写真を撮ってもらえないか」と頼まれ、快く応じた[28]
  • 2006年のアメリカ訪問時に「アメリカは一人で悪に立ち向かっているわけではありません。常に多くの同盟国、友好国とともにあります。そして日本はアメリカとともにあるのです」と演説をし、鳴り止まないほどのスタンディング・オベーションを浴びた[29]

[編集] 人物像

[編集] 信念・容姿

  • 身長169cm、体重60kg。前任の森喜朗(175cm)よりも低いが、肥満型の森と比較して痩せ型のためか森よりも高身長に思われていた様である(長男の小泉孝太郎は177cm、次男の小泉進次郎は170cm)。21世紀に総理大臣を務めた人物では最も小柄である(鳩山由紀夫は178cm、森喜朗・安倍晋三麻生太郎は175cm、菅直人は175cm、福田康夫は171cm)。
  • 血液型A。
  • 小泉は“骨太の方針”をまとめるさなか、「ぼくは高杉晋作の生き方を見習おうと思っている」と述べている[30]
  • 人と会話するとき身振り手振りを交えながら一言一言を短く簡潔に言いたいことをわかりやすく表現する喋り方が特徴。
  • 郵政民営化道路公団民営化などに反対する議員・団体・勢力を「抵抗勢力」と呼んだ。
  • 国会演説や記者会見などで、国民に対して自助と自律の精神を呼びかけた。
  • 愛読書は『ああ同期の桜』(海軍飛行予備学生第14期会編)。
  • 国会では「極東国際軍事裁判を受諾し、A級戦犯戦争犯罪人と認識している」と答弁している。
  • 2006年9月の自民党総裁任期満了をもって総理及び総裁の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点からポスト小泉人事が話題となっていた。小泉自身は総理・総裁辞任後は院政を敷くつもりはないと発言し、総裁選直前には安倍晋三支持を明確にした。
  • 髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターが作られた。なお、2005年冬に米国俳優のトム・ハンクスと米国で対面した際、トム・ハンクス本人から「今、小泉総理のヘアースタイルが、米国ですごく流行っている」と言われ、小泉は照れ笑いに終始した。
  • 人からの贈り物は、ほとんど受け取らない。バレンタインのチョコレートも送り返している。
  • 政治家として結婚式の仲人もした事があるが、式の席上で仲人の新郎新婦紹介の際、「結婚はそんな甘いものじゃあない!」と発言し、列席者全員を驚かせたことがある。
  • 米国俳優のリチャード・ギアと面会した際、「ジャパニーズ・リチャード・ギア」と紹介された。
  • 父親(小泉純也)の死んだ65歳まで政治家をやって引退しようと決めていた。

[編集] 対人関係

  • 福田赳夫(元首相)に師事した。
  • 第43回衆議院議員総選挙で落選した盟友・山崎拓を首相特別補佐官として登用している。その後、靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠になったとも言われている。
  • 長年選挙対策本部長を務めた竹内清(前神奈川県議会議長)は、暴力団稲川会の元組員であり、石井会長と非常に親しい関係にあった[31]。写真週刊誌『FRIDAY』(2004年6月25日号)は「小泉首相の選挙経歴 - 選挙対策本部長が元暴力団」というスクープ記事を掲載し、この竹内清の証言を引き出している。この竹内の力で、1969年時の選挙の時に注目を集めた小泉の女性問題に関する中傷はピタリと止み、1972年初当選を果たした。竹内清はその後連続10回選挙対策本部長を務め、2001年に政治活動から引退しているが、全12回のうち10回の選挙を竹内清が仕切り、小泉と闇勢力との深い関係は、初当選から30年以上の長期にわたって続いている。[32]

[編集] 音楽・芸術関係

  • 解散したロックバンド、X JAPANの大ファンであると公言している。(X JAPANは2008年3月に再結成)その流れから自民党のCMにX JAPANのヒット曲『Forever Love』を採用した。
    • 小泉内閣で経済産業副大臣を務めた高市早苗によれば、小泉とカラオケをした際にX JAPANのシングル曲である『Rusty Nail』を歌ったが、小泉はこの曲を知らなかったという。本人はバラード曲である『Tears』を最も好んでおり、2004年の参議院選挙に向けたCMのBGMへの使用を考えていたが、選挙戦に涙はまずいとして、以前にも自民党が採用した『Forever Love』が再度採用された経緯がある。
    • 1998年5月2日死去した元X JAPANのメンバー(ギタリスト)で、同郷でもあるhideの記念館(地元の神奈川県横須賀市)の設立に協力した。
  • オペラ(歌劇)、狂言歌舞伎映画鑑賞が趣味。
    • 小泉は若い頃、ある記者から「おじいさんから政治の薫陶(くんとう)は受けましたか」と尋ねられ、「いや花札しか教わらなかった」と答えている。「ほかには」と問われると、平然として「歌舞音曲だ」と言った。この記者によれば、歌舞音曲好きの血は、小泉家全員に流れているという。「小泉家では一月の二日か三日に、全員で歌舞伎座に行くのが恒例となってます。これは、地元の横須賀事務所をまかせられている末弟の正也が、歌舞伎座の正月公演で三味線を弾いているからです。もちろん舞台の上のプロの芸ではなく、幕の裏で囃子(はやし)をつける素人の旦那芸です。何やかにやで百万円はかかるそうです。又次郎任侠肌の人だったせいなのか、小泉家にはそんな玄人(くろうと)好みの血が流れているんです。」[33]
    • 中でもオペラへの関心は高く、2003年ドイツ公式訪問では本人の強い希望でバイロイト音楽祭を訪問し、リヒャルト・ワーグナー作のタンホイザー全3幕を鑑賞した。2001年に日本でメトロポリタン・オペラが公演を行ったときも、『サムソンとデリラ』を鑑賞している。
    • 多くの映画音楽を手掛けている音楽家エンニオ・モリコーネのファンでもあり、2005年(平成17年)10月5日に発売されたチャリティアルバム「私の大好きなモリコーネ・ミュージック」の選曲を務めた。
    • 「好きな映画ベスト3」は「ショーシャンクの空に」「ニュー・シネマ・パラダイス」「フィールド・オブ・ドリームス」であると毎日新聞に掲載された。(2000年
  • オールディーズ時代のロックンローラー、エルヴィス・プレスリーの大ファンである。首相就任後の2001年には、自ら選曲し解説を著したエルヴィスのCDアルバムを発表した。
    • 2006年6月30日に日米首脳会談後、エアフォースワンにブッシュ夫妻と同乗し、エルヴィスの旧居である「グレイスランド」を公務として訪問した。そこで「グローリー、グローリー、ハレルーヤ、っと」と熱唱しながらエアギターを披露し、失笑を誘った。
    • エルヴィスとは誕生日が同じ1月8日である。
  • 小泉内閣最後の官邸メールマガジンに、ありがとう / ささえてくれて / ありがとう / 激励協力 / 只々感謝 という自作短歌を掲載した。

[編集] スポーツ・芸能関係

  • 大相撲に興味があり、しばしば本場所を訪れる。
    • 首相就任直後の2001年5月の夏場所では、たいていは内閣官房副長官(政務)が担当する総理大臣杯の授与を自ら行い、前日の負傷を押して出場し22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱貴乃花光司に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動したっ! おめでとう!」との賛辞を送った。「感動したっ!」は流行語ともなった。ただし、この負傷が原因となって、貴乃花はこの優勝を最後に現役を引退した。
    • 2005年11月の九州場所では、総理大臣杯の授与を、再び自ら行った。年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に対して、「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」と賛辞を送った。貴乃花の時は東京両国国技館であったが、この時は福岡国際センターである。わざわざ福岡まで行った理由について、年6場所を全て制覇したら行くという約束を、その年の初めに朝青龍とかわしていたと記者団に語った。
  • プロ野球では神奈川県を本拠地とする横浜ベイスターズを応援している。同球団の2軍が独立採算制の湘南シーレックスとなった際には、本拠地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。また堤義明とも親交が深く、総理大臣就任以前は堤がオーナーだった西武ライオンズのホームゲームを観戦に西武ドームへ何度も足を運んだ。横浜高校出身の松坂大輔が高卒新人時代に先発した試合を堤とVIPシートで観戦した事もあった。
  • サッカーの2002 FIFAワールドカップでは、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために国立競技場を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。また、6月30日の決勝戦がドイツブラジルになったのを受け、カナダカナナスキスサミット第28回主要国首脳会議)で同席したドイツのシュレーダー首相を日本国政府専用機に乗せ、横浜国際総合競技場に招待した。外国の要人が日本国政府専用機に乗った最初の例である(一般に政府公用機は民間航空機とは異なり駐機中でも機体所有国の法令が適用される(治外法権)など特別な事情があり、外国の元首や要人が同乗するのは異例)。
  • スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行っている。
  • 1998年、世界のワイン名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。
  • 1999年に放送されたドラマ「TEAM」(フジテレビ系)に文部大臣として出演したことがある。また同じ年に、同じくフジテレビ製作の「SMAP×SMAP」のビストロスマップのコーナーにも出演している。番組中に中居正広は「総理大臣になるのではないか?」と冗談で言ったが、現実のものとなった。日本テレビ製作の「モー。たいへんでした」にも出演した。
  • 小泉の選挙区内の横須賀出身で横浜高校から東京帝拳入門したバンタム級プロボクサー大和心を応援していた。
  • 2002年5月26日に東京競馬場で行われた東京優駿(日本ダービー)に来場し、表彰式で優勝馬(タニノギムレット)の馬主(谷水雄三)に「内閣総理大臣賞」を授与した。現職首相のダービー観戦は、1958年の岸信介首相以来の44年ぶり2回目。
  • みのもんたによれば、小泉は「65歳位で引退しようかな、もうその頃が引き際だ」と発言していたという[34]
  • 2009年の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』にてウルトラマンキングの声を担当している。

[編集] ロンドン大留学について

慶應で同級だった学者の栗本慎一郎【週刊現代 2005/12/24号 巻頭記事】 栗本慎一郎 : 「パンツをはいた純一郎」の中で「彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、そのままロンドンに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」と述べている。栗本の証言が正しければ、1963年に留学したことになる。同級生たちはみな1963年渡欧と思っているという。

この留学について、岩崎大輔 著『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』132-133頁に「履歴書に箔をつけるための留学なのか。はたまたほかに理由があったのか。“純一郎をこのまま横須賀に置いておくわけにはいかんなぁ”ロンドン大留学前、純也はある支援者にこうぼやいてた。若き小泉が“結城純一郎”なる偽名を使い、ハメを外していたことは先に記したとおり。結果、典型的な“政治家のバカ息子”となり、深刻な女性問題を引き起こしてしまった、と当時を知る支援者Rは重い口を開く。相手の親が問題であったという。“その支援者は又次郎さんとも交流があり、純也さんの後見人のような立場でもあった。財界人で政界に進出し、当時は小泉家よりも格は上。純也さんとしては、婚姻関係を結ばせ親戚付き合いを望んでいた。二人の仲も悪いわけではなかったが、政略結婚みたいなものに若い二人から反発もあったようだ。”気が進まない様子でしぶしぶ語った。“その娘とのトラブルは純也さんが平身低頭し純一郎を横須賀から追放することで収められた。支援者たちの手前、放逐せざるをえなかった”」とある。

公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし。『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)には「小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は“慶應義塾大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学”とあるが、これは虚偽記載に当たる。なぜなら、ロンドン大学(UCL、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)に政治経済学部はないからである。ロンドン大にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば、一般的にロンドン大学政治経済学院を指し、優秀な学生が集まることで知られているが、小泉首相が在籍したのはここではない。小泉首相はユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で遊学していただけにすぎない」とある。

[編集] 人物評

  • 首相就任以来、毎日通常2回、官邸で総理番記者の質問(ぶら下がり)に立ち止まって答えた。(小泉以前の首相は答えない場合もあったり、質問に答える場合でも歩きながらという慣習であった)
  • YKKでは、人徳の山崎、政策の加藤に対比して、政局の小泉と評された。
  • 1998年の自民党総裁選に出馬した際田中真紀子小渕恵三凡人、士官学校卒の梶山静六軍人、そして小泉を変人と評した(総裁選で選ばれた際の真紀子の演説では「変人の母でございます」)。以後このニックネームが定着したが、このとき本人は「『変人』とは『変革の鉄人』のことである」と述べている。2005年の郵政解散の折には、参議院での法案否決による衆議院解散を思いとどまるよう説得に訪れた森喜朗に「変人以上」と評されている。
  • 「自民党をぶっ壊す」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と宣言して総裁選に勝利、発足時の内閣支持率は戦後最高を記録した。一部では「ナチズム」「ブーランジスム」と揶揄される程の驚異的支持率であった。
  • 2001年9月の臨時国会における所信表明演説ではチャールズ・ダーウィンの進化論を経済社会にも取り込むよう発言した。ただ、ヒトラーが進化論を演説に取り込んだこともあり、欧米では演説に細心の注意が払われる傾向にある。
  • 田中真紀子(当時外相)の更迭時には支持率が急落するものの、終始40%以上の支持率を保ち続けた。
  • 聖域なき構造改革」として、国民に対して痛みを伴う改革を主張した(野党には「痛みしか伴わない」と言われた)。
  • 衆議院選挙における小選挙区比例代表並立制に一貫して反対し、選挙の際は重複立候補していない(2005年の郵政選挙では一時期小泉本人の重複立候補が決まりかけていたが、最終的に取りやめとなった)。1996年の衆院選で当選が決まったあと、選挙事務所からTV中継されたインタビューにおいても「選挙区で落選した議員が比例区で当選するというのはおかしい。だから私は重複立候補はしない」と述べている。しかし2005年の選挙では自身が否定的なその比例代表並立制の特徴を存分に活用して新人議員を多数当選させる。
  • 靖国神社に参拝する理由を問われると一貫して「心の問題」と強弁して押し通した。他方で政教分離原則に反すると議論を呼んだ。ただ、総裁就任以前には参拝の習慣は無かったようで、靖国参拝は日本遺族会からの支持を期待しての公約だったとの見方もある。
  • 2001年の総裁選においては田中真紀子から出馬を強く勧められたことを明かし、「立ちなさいと女性から言われて、男として立たないわけにはいかない」と挨拶した。

[編集] 主な発言一覧

  • 橋本首相だったらたいして変わらない。私になったら劇的に変わる。そこがこの総裁選の最大のポイントです」(1995年9月16日、日経新聞インタビュー)
    自身初となる自民党総裁選に立候補したときの発言。
  • 「私は勘弁。アイ・アム・ソーリーだよ」(1996年12月、テリー伊藤との会談)
    テリー伊藤との会談にて首相就任の話を持ちかけられて一言。
  • 「『変人』の生みの親から『変革の人』と言っていただき、これほど力強いことはない」(2001年1月27日、自民党本部出陣式)
    次期自民党総裁選に“小泉”を推す事を表明した田中真紀子の応援に応えての発言。
  • 「私が、小泉が、自民党をぶっ潰します!」(2001年4月)
  • 「首相に就任したら8月15日の戦没慰霊祭の日に靖国神社を、いかなる批判があろうと必ず参拝します」(2001年4月18日、自民党総裁選討論会)
  • 構造改革なくして成長なし」(2001年5月7日)
    第151回国会の所信表明演説で、構造改革を思い切って進めていくと決意表明。
  • 「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」
    2001年5月の大相撲夏場所で横綱貴乃花が幕内で優勝し、その表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。
  • 「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力だ」(2001年 - 2002年)
  • はいいよね」「私がいちばん傷ついている」(2002年1月30日、田中真紀子外相を更迭して)
  • 「この程度の約束を守らないのは大したことではない」(2003年1月23日、衆院予算委員会)
    3つの公約(靖国神社8月15日参拝、国債30兆円枠、ペイオフ解禁)に対する発言。論戦後、「この程度の約束発言」について「公約は大事ですよ。国債発行30兆円枠を守るのと、経済情勢を見て柔軟に対応するのとてんびんにかけて。靖国だってそう。許容範囲です」と記者団に語った。後にこの発言を撤回。なお、小泉は3つの公約について首相在任中に達成している(2006年8月15日靖国参拝、政権末期の2006年度予算で国債30兆円枠達成、2005年4月1日ペイオフ解禁)。
  • 「今イラクのどこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、そんなの私に聞かれたって分かるわけがないじゃないですか!」(2003年7月23日、党首討論)
    民主党菅直人代表の「非戦闘地域というのはフィクションではないか。1ヵ所でもいってみてください」という質問に対しての発言。
  • 集団的自衛権を認めるなら、憲法を改正した方がいい」(2003年7月25日、参院外交防衛委員会)
  • 「おだやかで快活な冗談を飛ばす頭の回転の速い人だ」、「独裁者の国では交渉が(その後の協議)で変わる。独裁者の考えは私自身が確かめるしかない」(参院・イラク武力攻撃事態特別委員会)
    金正日総書記の印象をこう語った
  • 「野球界にも権力闘争があるんだね」
    原辰徳の辞任を聞いた小泉純一郎は、記者団にこのようにコメントした。
  • 「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ。岡田さんの会社だって、みんながみんな同じように働いてるわけじゃないでしょう?」(2004年6月3日、党首討論)
    民主党岡田克也代表が厚生年金加入時の会社の勤務実態を追及するとこう答えた。
  • 自衛隊の活動しているところは非戦闘地域である」(2004年11月10日、党首討論)
    岡田民主党代表に「戦闘地域と非戦闘地域とについて具体的にどういう状態をさすのか」と聞かれての発言
  • 「おれの信念だ。殺されてもいい」(2005年8月6日、官邸で森喜朗前首相に)
    参議院で参院郵政民営化法案の否決が濃厚になり衆議院解散を思いとどまらせようと会談した森前首相にこう答えたという。
  • 「今回の選挙は、いわば、郵政選挙であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、それを国民に問いたい」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見)
  • 「その時ガリレオは、『それでも地球は動いている』と言ったそうであります」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見)
  • 「無党派層は宝の山」
    2005年9月20日、衆院選で初当選した83人の自民党の新人議員を対象にした研修会における発言。
  • 「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」
    2005年11月の大相撲九州場所で年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に、内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。
  • 格差が出ることが悪いとは思わない。今まで悪平等だという批判が多かったし、能力のある人が努力すれば報われる社会にしなければならない」 (2006年2月1日、参院予算委員会)
  • 「総理大臣である、人間小泉純一郎が参拝しているんです」(2006年8月15日、靖国神社参拝後の記者質問に対して)
  • 「政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。総理大臣だって使い捨て。甘えちゃだめです。『使い捨てされるなんて嫌だ』なんて言った人は、国会議員にならないほうがいい」(2006年11月7日、日本夢づくり道場での講演)
  • 「おれにはそんな金はないよ」(2007年6月13日、自民党の中川秀直幹事長から、年金支給漏れ問題で歴代厚生大臣の責任により給与返納に言及されたときの返事)
  • 「人生には上り坂もあれば下り坂もあります。もう一つ坂があるんです。『まさか!』という坂であります。まさかあのような形でね、安倍さんが退陣するとは思わなかった」(2007年10月4日)
  • 政界では、権力闘争は当たり前だ。敵をどう味方に変えるかが大事だ。造反組は政治の信念を曲げ、土下座するようなことを引き受けたのだから、認めてやってもいいのではないか」
    総理退任後、小泉チルドレンに向けて言い放った。
  • 「5人の候補者の全員が小泉内閣の閣僚だった。だから私も今の時点で誰を(支持する)と言うのはちょっと躊躇してるんですよ。(競泳五輪金メダリストの)北島選手じゃないけど、今の時点では『何も言えねえ!』と」(2008年9月、ポスト福田について)
  • 「わたしは最近の麻生太郎首相の発言について、怒るというよりも笑っちゃうくらい、ただただあきれているところだ」「わたしについても、(首相が)常識の通じない男だとかね、奇人変人とか言っているようだが、わたしは自分では常識をわきまえている普通の人だと思っている」(2009年2月12日)
ウィキクォート
ウィキクォート小泉純一郎に関する引用句集があります。

[編集] 家族 親族

実家
慶応元年(1865年)5月生~昭和26年(1951年)9月没
『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、、“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。
普通選挙推進運動の闘士として庶民人気が高かった[35]
明治37年(1904年)1月生~昭和44年(1969年)8月没
純也は鹿児島の出身で、生家の鮫島家が事業に失敗したため上京し、苦学しながら政治の道を志した。芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった。又次郎のところに出入するうち二人は恋におち、東京・青山の同潤会アパート同棲をはじめた[36]駆け落ち後、許されて又次郎のもとへ戻った芳江と純也は三女二男をもうけた。[37]
在日朝鮮人北朝鮮送還事業を主導した[38]
妻は東京都知事石原慎太郎の妻典子の従兄弟の娘
自家
このほか、母佳代子と同じ宮本姓を名乗っている三男がいる。妊娠六ヶ月で離婚された佳代子が一人で三男を産むと、小泉側は親権を主張し、家裁での調停に持ち込まれた。その結果ようやく佳代子が三男を引き取ることができた。三男が「父親と二人きりで会いたい」と涙ながらに小泉事務所に電話で訴えてきたことがあったが、その話を秘書官の飯島から伝え聞いた信子は「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放ったという。[39]
他家
  • いとこ・井料克己(いりょう かつみ、政治家・元横須賀市議会議長)
井料の母親の弟が純也である[40]

[編集] 系譜

小泉家
祖父小泉又次郎武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人由兵衛の二男として生まれた[41]。由兵衛はのちに横須賀に移って、海軍労務者、砲弾や石炭、食糧などを送り込む請負師[42]となった[43]
又次郎は明治41年(1908年)衆議院議員に当選、浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣を務めた。
小泉純也鹿児島県川辺郡東加世田村(現南さつま市)の漁業鮫島家に生まれ、昭和12年(1937年)衆議院議員に当選、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を務めた。
神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』236 - 237頁に「さてその小泉の閨閥であるが名門といわれるほどのものではない。むしろ小泉の性格は三代続く政治家家系の血筋とみてよい。」とある。
  藤田丈吉━━━━泰道正年          ┣━━━━━┳━泰道一正  泰道照山━━┳━芙蓉子   ┗━泰道真也        ┣━泰道三八        ┗━志計子          ┣━━━━━━━佳代子          宮本氏     ┣━━━━━┳━小泉孝太郎                ┏━小泉純一郎 ┣━小泉進次郎  鮫島氏━━━━━小泉純也  ┃       ┗━男(宮本氏)          ┣━━━━━┫  小泉又次郎━━━芳江    ┗━小泉正也                  ┃┏━石田重蔵━━━━石田吉之輔━━━美枝子┗━石田光治━━━━典子          ┣━━━━━┳━石原伸晃        ┏━石原慎太郎 ┣━石原良純        ┗━石原裕次郎 ┣━石原宏高                ┗━石原延啓

[編集] 略年譜

[編集] テレビ番組

[編集] 著書

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 入れ墨を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる(佐野眞一 著『小泉純一郎――血脈の王朝』140頁)。藤原肇 著『小泉純一郎と日本の病理』39-40頁に「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話は作り話であり、やはりテキ屋の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」とある。彫り師凡天太郎は「とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」と述べている(岩崎大輔 著『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』58頁)
  2. ^ 福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で揃(そろ)えておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り~お車ぁ~”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」(梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』 125-126頁)
  3. ^ 藤原肇・著『小泉純一郎と日本の病理』193頁。
  4. ^ この結婚に佳代子の父親的な存在だった泰道照山は反対だったとされる。宮本家の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている(岩崎大輔『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 176-177頁)。
  5. ^ この離婚について純一郎の正也は週刊朝日(2001年6月1日号)の中で「あちらのことは何も知らされてなくてね。結婚してから、あちらの親族が亡くなったというので葬式へ行って初めて創価学会員だということがわかった。(中略)結婚前にそういう重要なことを何も知らされてなかったというのが問題だということです」と述べている。しかし岩崎大輔の著書『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 179頁には「宮本家の遠い筋の親戚に学会員はいるが、佳代子にはまったく身に覚えがない言い掛かりだ」とある
  6. ^ 1993年5月7日、閣議での発言
  7. ^ 『朝日新聞』1993年5月7日
  8. ^ 「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策を取ったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見
  9. ^ 『朝日新聞』1993年5月14日夕刊
  10. ^ [飯島勲氏、小泉純一郎前首相の秘書を辞職…福田支持に反発?(2007年9月14日 サンスポ)]
  11. ^ 空回り小泉チルドレン…小池擁立も失敗、福田支持へ(2007年9月14日 産経新聞)
  12. ^ 『週刊FLASH』2008年6月10日号
  13. ^ 藤原肇・著『小泉純一郎と日本の病理』206頁。
  14. ^ 毎日放送2006年9月6日報道
  15. ^ 「三方一両損」という言葉で自らの改革を自画自賛したが、国会で故山本孝史議員から「三方一両損」の意味を知っているのかと質され返答できなかった。三方一両損は大岡裁きで知られる大岡忠相(大岡越前)のいわゆる大岡政談に出てくる話で、三両を落とした大工とそれを拾った左官が互いに譲り合って受け取ろうとしなかったので、大岡が自分の一両を足して二両ずつ分け合わせたという話。小泉の改革では保険機構はまったく損をしていないばかりか、被保険者は日頃の保険料も、窓口負担もともに増えているので三方一両損の比喩は全く当たらない。
  16. ^ 飯島勲『小泉官邸秘録』
  17. ^ http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=79779&servcode=200 中央日報 2006年9月12日
  18. ^ [1]
  19. ^ ただし中国人タレントのaminは「愛・地球博」ファイナルテーマソングを小泉純一郎の前でも歌っていた。
  20. ^ 1992年に次いで2008年にも天皇・皇后も招待する予定だったが、その予定を断った。
  21. ^ [2]
  22. ^ 飯島勲『小泉官邸秘録』
  23. ^ 飯島勲『実録小泉外交』
  24. ^ 飯島勲『実録小泉外交』
  25. ^ 飯島勲『実録小泉外交』
  26. ^ 飯島勲『実録小泉外交』
  27. ^ 飯島勲『実録小泉外交』
  28. ^ 飯島勲『実録小泉外交』
  29. ^ 飯島勲『実録小泉外交』
  30. ^ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』38頁
  31. ^ 岩崎大輔『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』 24-53頁 -。
  32. ^ 藤原肇・著『小泉純一郎と日本の病理』193-194頁。
  33. ^ 佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』146頁
  34. ^おもいッきりイイ!!テレビ』(2008年9月26日放送)より。
  35. ^ 佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』139頁
  36. ^ 又次郎は『帰って来い』と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている(梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』87頁)。純也と芳江の結婚について、又次郎養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている(佐野眞一著『小泉純一郎-血脈の王朝』148頁)。
  37. ^ 佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』148-149頁
  38. ^ 「「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」 [朝鮮日報]」
  39. ^ 佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』173-174頁
  40. ^ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』17頁
  41. ^ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁に「又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さなであったという。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった」とある。作家火野葦平著『青春の岐路』には「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、バクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」とある。
  42. ^ 猪野健治著『やくざと日本人』211頁に「博徒の伝統的な業態に“労働力供給業”がある。戦後でいう“手配師”がそれだが、戦前は単に労務者を労働現場へ送り込むだけでなく、自らも労働現場で“飯場”を経営した。大正昭和炭鉱、鉱山、工事現場、沖仲仕等の“タコ部屋”、“労働監獄”は、そのあくどさの典型であった。“労働力供給業”のすべてが、そうであったわけではないが、この業態そのものが労働者を不当に拘束し、虐待する性格をもっていることは否定しがたい。明治以後の“労働力供給業”は、日本の急テンポの近代化ともあいまって土木建築請負業に集中した。」とある
  43. ^ 当時の横須賀では沖仲仕手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという(藤原肇・著『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。宮崎学の著書『ヤクザと日本―近代の無頼』54 - 55頁には「1884年明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない。」とある。猪野健治著『侠客の条件 吉田磯吉伝』170-171頁には「やくざ組織の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。その構成層は、封建時代にあっては、下級武士浪人、人足、農民、職人等であり、明治以降、昭和にかけては、没落士族、中小鉱山港湾土木建築関係者、土方、農漁民、職人等の一部であった。彼らこそ失うべき名誉も地位も財産もなにものももたない階級の所属者であった。彼らがときに発揮する反権力性は、実は彼らの階級性の気まぐれな表現であり、民衆が彼らに期待する任侠道とは、階級意識の原始的顕現にほかならない。」とある
  44. ^ 慶應で同級だった学者の栗本慎一郎【週刊現代 2005/12/24号 巻頭記事】 栗本慎一郎 : 「パンツをはいた純一郎」の中で「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。…彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、そのままロンドンに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」と述べている。栗本の証言が正しければ、1963年に留学したことになる。同級生たちはみな1963年渡欧と思っているという
  45. ^ 小泉談話

[編集] 関連項目


[編集] 外部リンク

ウィキクォート
ウィキクォート小泉純一郎に関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズ
官職
先代:
森喜朗
日本の旗 内閣総理大臣
第87・88・89代 : 2001年 - 2006年
次代:
安倍晋三
先代:
藤本孝雄
菅直人
日本の旗 厚生大臣
第69・70代 : 1988年 - 1989年
第81代 : 1996年 - 1998年
次代:
戸井田三郎
宮下創平
先代:
渡辺秀央
日本の旗 郵政大臣
第55代 : 1992年 - 1993年
次代:
宮澤喜一
先代:
田中眞紀子
日本の旗 外務大臣
第132代 : 2002年(兼任)
次代:
川口順子
先代:
島村宜伸
日本の旗 農林水産大臣
第38代 : 2005年(兼任)
次代:
岩永峯一
党職
先代:
森喜朗
自由民主党総裁
第20代 : 2001年 - 2006年
次代:
安倍晋三
先代:
森喜朗
清和政策研究会会長
第5代 : 2000年 - 2001年
次代:
森喜朗
歴代内閣総理大臣
8586
森喜朗
878889
2001年–2006年
90
安倍晋三

伊藤博文
黑田淸隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人

Emblem of the Prime Minister of Japan.svg


 1  2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12   13   14   15   16   17   18   19   20   21   22   23   24   25   26   27   28   29   30   31   32   33   34   35   36   37   38   39   40   41   42   43   44   45   46   47 

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