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徳川家綱

1/10

出典: フリー百科事典『)』

徳川家綱
Tokugawa Ietsuna.jpg
時代江戸時代前期
生誕寛永18年8月3日1641年9月7日
死没延宝8年5月8日1680年6月4日
改名竹千代(幼名)、左様せい様(渾名)
諡号厳有院
戒名厳有院殿贈正一位相国公
墓所東叡山寛永寺
官位従三位、権大納言。正二位、右近衛大将
内大臣・征夷大将軍・右大臣
贈正一位、太政大臣
幕府江戸幕府 4代征夷大将軍
(在任:1651年 - 1680年)
氏族徳川氏徳川将軍家
父母父:徳川家光、母:お楽の方(宝樹院
兄弟千代姫家綱、亀松、
綱重綱吉、鶴松
正室:浅宮顕子
側室:吉田兼起の娘・養春院
佐脇安清の娘・円明院
養子:綱吉、養女:直姫徳川光友の娘)
  

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は江戸幕府の第四代将軍(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。

父は第3代将軍・徳川家光。母は側室のお楽の方(増山氏)。竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。

目次

[編集] 生涯

[編集] 将軍就任

寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。乳母矢島局

父の家光は、生まれたときから家綱を自らの後継ぎに決めていたという。その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。

正保元年(1644年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年(1645年)4月に元服する。慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移る。

慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代将軍に就任し、内大臣に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。

12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後(徳川慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。

[編集] 治世前半

将軍家を継承したときわずか11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の由比正雪丸橋忠弥らによる討幕未遂事件(慶安事件)が起こるなどして政情不安に見舞われた。

しかし叔父の保科正之や家光時代からの大老・酒井忠勝、老中の松平信綱阿部忠秋酒井忠清寛永の遺老といわれる名臣の補佐により、この危難を乗り越えた。このため、以後は29年間にわたる安定政権をみた[1]

家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。特に保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、さらに殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。

万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年(1664年)には1万石以上の大名に対する領地朱印状を、さらに寛文5年(1665年)には公家や寺社を対象とした領地朱印状を交付している。

[編集] 治世後半

寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導のもと老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、全国的な流通・経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。また、この時期には伊達騒動越後騒動など大名家の御家騒動も発生している。

側室のお振お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。

家綱の危篤に際して、酒井忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍が迎えられた例ならい、祖父・秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、堀田正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説がある。

[編集] 人物・逸話

  • 『文武太平記』に拠れば、家綱は温厚な人柄で絵画や魚釣りなど趣味を好み、政務を酒井忠清はじめ老中らに任せ自らは「左様せい」で決裁していたことから「左様せい様」という異名が付けられたという。この逸話は家綱自身が幕政指導者としての指導力を発揮できず酒井忠清の専制を示すものとしても引用されているが、辻達也や福田千鶴らは幕政の意思決定における将軍上意の重要性を指摘している。
  • 生後4ヶ月で脳膜炎にかかったことがあり、このため脳に障害があったのではないかとされている。
  • 家綱が元服するまでは保科正之ら家光時代の遺産ともいうべき人材に恵まれていたのが安定した時代を築ける幸運でもあった。徳川名君名臣言行録では、「吾、幼年なりといえども、先業を承け継ぎ、大位に居れり」とある。
  • 新井白石著の「白石手簡」では、家綱は中国の時代の政治書である「貞観政要」を好み、幕政運営の参考にしたという。
  • 『武野燭談』に拠れば、家綱の将軍就任から間もない幼少期のことであるが、江戸城天守閣へ登った際、近習の者が遠眼鏡をすすめたが、「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らなかったという。
  • あるとき、遠島となった罪人の話を聞き、家綱は「彼らは何を食べているのだろう」と近臣の者に尋ねたが誰も答えられず、それに対し、家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」といった。それを聞いた父の家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、流人に食料を与えるようになったという。
  • 家綱が食事していたとき、汁物を飲もうとしたところ、髪の毛が入っていた。家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、小姓があわて新しい物と交換しようとした。家綱はその小姓に対し「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」といった。これは御椀を空にすることにより、普段のおかわりと同じ様に扱えということで、咎められる者が出ないようにとの家綱の配慮があったということである。
  • 明暦の大火により、焼失被害にあった江戸市中の武家屋敷、社寺仏閣などに資金援助し、復興に助力したという。

[編集] 官歴

※日付=旧暦

[編集] 脚注

  1. ^ しかし、政治的には安定したものの、家綱の治世後半になると経済の窮乏や百姓一揆の増加などを招いた

[編集] 偏諱を受けた人物


[編集] 徳川家綱が登場する作品

映画
テレビドラマ



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