慶應義塾大学
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| 慶應義塾大学 | |
|---|---|
慶應義塾図書館旧館(国重要文化財) | |
| 大学設置 | 1920年 |
| 創立 | 1858年 |
| 学校種別 | 私立 |
| 設置者 | 学校法人慶應義塾 |
| 本部所在地 | 東京都港区三田2丁目15-45 |
| キャンパス | 三田(東京都港区) 日吉(神奈川県横浜市港北区) 信濃町(東京都新宿区) 矢上(横浜市港北区) 湘南藤沢(神奈川県藤沢市) 芝共立(東京都港区) |
| 学部 | 文学部 経済学部 法学部 商学部 医学部 理工学部 総合政策学部 環境情報学部 看護医療学部 薬学部 |
| 研究科 | 文学研究科 経済学研究科 法学研究科 社会学研究科 商学研究科 医学研究科 理工学研究科 政策・メディア研究科 健康マネジメント研究科 経営管理研究科 法務研究科 薬学研究科 システムデザイン・マネジメント研究科 メディアデザイン研究科 |
| ウェブサイト | 慶應義塾大学公式サイト |
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田2丁目15-45に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、または慶大(けいだい)。
目次 |
[編集] 概観
[編集] 大学全体
慶應義塾大学は、中津藩藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に1858年(安政5年)に開校した蘭学塾に由来する日本で最も古い起源を持つ大学である[1]。アジア最古の高等教育機関でもあり、清朝最古の大学である南洋公学(現在の上海交通大学・西安交通大学)1896年(明治29年)創立より早い段階で近代的な学府を確立した。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」にまで遡る。1863年(文久3年)には蘭学塾から英学塾に改め、1868年(慶應4年/明治元年)に、前年に購入した芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[2][3]。なお、「義塾」とは英語の「public school」(共立学校)の訳語とされ[2]、このとき、中津藩の家塾から近代私学としての一歩を踏み出した。1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[4]。明治13年までの生徒の割合は士族が十中八九であり、廃藩後、次第に平民の数が増えていった[5]。1873年(明治6年)には明六社へ参画。同年に「慶應義塾医学所」を開設[6]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[7]・「京都慶應義塾」[8]を設立。また、福澤諭吉が1857年(安政4年)に第10代塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪大学医学部)や太閤豊臣秀吉「大かうさまくんきのうち」の保有など、大阪とのゆかりも深い。1877年(明治10年)に神戸商業講習所を開校。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。明治23年に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設、北里柴三郎が尽力[9]。1920年(大正9年)には大学令による大学として新発足し、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する審議機関として慶應義塾評議員会が設けられた。1942年(昭和17年)に大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとした事がある。1944年(昭和19年)に工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部・環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に学校法人共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置して、大学は10学部、大学院は14研究科となった。 第二次世界大戦前には慶應義塾大学は『三田の理財』『理財の學は百學問の上にあり』とも謳われ、伝統的に経済学部が名高い。卒業生は明治初期、官界、教育界、経済界で百花繚乱であったが、政変の後、漸次に経済人・実業家が勃興するようになる。なかんずく、公認会計士輩出数は1975年(昭和50年)以来トップである[10]。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した。
[編集] 塾訓・目的
「学校法人慶應義塾」を参照
慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである[11]。内容は以下の通り。
- 慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず
- 其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し
- 之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして
- 之を口に言ふのみにあらず躬行実践
- 以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
- 以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書
この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明に言い表したものと解されている[11]。
また、慶應義塾では、「独立自尊」を教育の基本に置く。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条[12])。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本を言い表すものともされる[13]。
[編集] 教育および研究
- 綱領
「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行う。という意味があり、これを念頭に置いている[14]。大きな柱は『医療』と『研究』である。蘭学から適塾、慶應義塾医学所、北里柴三郎による伝染病研究所、北里研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、ハーバード・メディカルスクールと1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち[15]、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携・協力を行っている[16]。終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。21世紀COEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、『四書五経』や『武士道』の研鑽を積んだのち[17]、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。実学の精神である、「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)、または学問を学ぶ姿勢としても科学を重視すること」(窮理図解)や「自我作古」の精神[18]から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究を行っているが、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎず、他を大学が全て負担している。
これら補助金が官立から優先的に配分される中で、私学であり続け、帝国大学と同レベルの研究水準が100年以上も保ち続けられている事は、世界でも稀有である[19]。なお、英ザ・タイムズ紙系の教育専門誌『The Times Higher Education Supplement(THES)』が発表した「世界大学ランキング」によると、2006年度〝総合120位(日本5位)〟2009年度〝総合142位(日本7位)〟『パリ国立高等鉱業学校』によると、2007年度〝総合11位(日本2位)〟であった[20][21]。ISI-トムソン・サイエンティフィックの論文引用度指数は材料科学分野で日本国内1位(04年~08年)。分子生物学、遺伝学、精神医学、心理学、人文社会科学の各分野がトップ10入り(02年~06年)する他、高被引用論文では神経科学、臨床医学、生物学・生化学の各分野がいずれもトップ7以内に位置している[22]。また、日本人宇宙飛行士を2名輩出している。文系では、その他烏合の官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している[23]。
- 兵法
慶應義塾では新銭座時代から心身共に健康を保つ手段として学生の体育を奨励し、1892年(明治25年)の体育会創設[24]によって専門家を雇って指導に当たらせた。初めは乗馬が主であり、明治12年頃からは剣術、柔術がこれに代わり、端艇、海軍・陸軍操練、弓術、徒歩の各部が加わった。明治29年徴兵令適用により学校に兵式訓練が課せられるに至るが、これより先に慶應義塾では早くから兵式操練が学生の間で行われており、陸軍・連隊旗と同様の「慶應義塾生徒隊」を結成し、盛んに野外演習などを行った。昭和12年には「慶應義塾特設防護団」が組織され、昭和14年には上海に研究所、北京に公館を創立。中国、南洋への学生研究旅行団が派遣され、昭和16年には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場・農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。
- 塾生皆泳
かつては全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンのもと、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務づけられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍軍人の長男(小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。 また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
- 旧帝国海軍地下壕
戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧帝国海軍)との間には深い関わりがあり(当時の塾長は小泉信三)、1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省・航空本部・艦政本部の地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の総本部となった。大東亜戦争における、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、大和 (戦艦)の出撃命令などは全てこの日吉台地下壕から発せられたものであった[25]。この経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになる。授業では自由主義や共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練(戦闘のための訓練)も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため[26]、特高警察などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた。)[27][28]。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、大本営を置く横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉が海軍兵学校の教官などを務めており、古来より海軍と慶應義塾は所縁の深い関係であったことが窺い知れる。
[編集] 学風および特色
カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。慶應義塾大学では、日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾でありこれは福澤諭吉の発案である[29]。また、古来日本の風習には無かった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた[30]。
[編集] 沿革
「慶應義塾」も参照
[編集] 年表
| 年号 | 沿革 |
|---|---|
| 1858 | 福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲に蘭学塾を開く。 |
| 1860 | 咸臨丸出帆。 |
| 1863 | 横浜見物を機に英学塾へ改組。 |
| 1864 | 長州征伐が勃発。 |
| 1866 | 紀州藩より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に「紀州塾」建築。 |
| 1868 | 芝新銭座に移転、慶應義塾と改称。適塾が閉鎖。 |
| 1870 | 弘前藩の招聘で英学教師二名派遣契約。 |
| 1871 | 芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、三田の島原藩中屋敷跡地へ移転。 |
| 1872 | 藩校進脩館が閉鎖。 |
| 1873 | 慶應義塾医学所開設。 |
| 1877 | 神戸商業講習所の経営を引き受ける。東京大学 (1877-1886)開設にあたって義塾出身の濱尾新を総理補に選出。西南戦争により塾生減少。 |
| 1878 | 三菱商業学校(明治義塾)を設置。大久保一翁、勝海舟を訪ね徳川家より義塾維持資金借用の事につき相談。剣術稽古開始。 |
| 1879 | 官立大学化を望まず、島津氏らの旧大名に維持資金の援助を賜る。日本初の簿記教育を開始。 |
| 1880 | 日本初の清から教師を受け入れる。支那語科開設。 |
| 1881 | 明治十四年の政変。 |
| 1882 | 物理学会創立。 |
| 1886 | 帝国大学発足にあたって義塾出身の渡邊洪基を総長に選出。 |
| 1889 | 慶應義塾規約制定。第1回評議員会開催。 |
| 1890 | 大学部が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。また大学部と区別するために従来の課程を普通部とした。 |
| 1892 | 体育会創設。 |
| 1893 | 司法省指定校に選出、大学部法律学修了者に判事検事登用試験受験資格を与えられる(司法省告示第九十一号)。 |
| 1898 | 一貫教育制度樹立。政治科開設。『慶應義塾学報』(後の『三田評論』)を創刊。 |
| 1899 | 私学初の留学生6名を欧米に派遣。 |
| 1900 | 第1回世紀送迎会 |
| 1906 | 大学部の上に大学院設置。 |
| 1909 | 『三田学会雑誌』創刊。 |
| 1910 | 『三田文学』創刊。 |
| 1912 | 創立50年記念図書館(現図書館旧館)施工。 |
| 1915 | 三田大講堂施工。 |
| 1917 | 大学部に医学科を開設。日本初の学生新聞『三田新聞』創刊。 |
| 1920 | 大学令による旧制大学となり、文学部・経済学部・法学部・医学部を設置。三年制の予科を附設。大学病院開院。 |
| 1922 | アルベルト・アインシュタインが日本で最初の講演を三田大講堂で行う[32]。 |
| 1930 | 第1回連合三田会大会。 |
| 1932 | 創立75年記念式典、皇室より秩父宮殿下をつかわされ教育奨励を賜る。 |
| 1934 | 日吉地区(現在の日吉キャンパス)を設置、予科を移転。 |
| 1937 | 北里博士記念医学図書館施工。 |
| 1941 | 月ヶ瀬温泉治療学研究所開設。 |
| 1942 | 語学研究所設置。外国語学校を開設。 |
| 1943 | 学徒出陣壮行会。 |
| 1944 | 獣医畜産専門学校開設。藤原工業大学(1939年設立)が慶應義塾に寄付され、工学部を設置。 |
| 1945 | GHQによって日吉キャンパスが接収される。 |
| 1946 | 女子の大学入学許可。 |
| 1948 | 通信教育部を設置。新制第一高等学校、第二高等学校開校。農業高等学校開設。 |
| 1949 | 学制改革により新制大学となる。日吉キャンパスの接収解除、返還される。 |
| 1950 | 女子高等学校開設。厚生女子学院開設。 |
| 1952 | 新制大学医学部設置。 |
| 1957 | 慶應義塾の創立から100周年にあたり商学部を開設。 |
| 1958 | 創立100年記念式典にて、昭和天皇が「おことば」を述べる。 |
| 1959 | 産業研究所開設。 |
| 1961 | 大学体育研究所、大学院商学研究科設置。新聞研究所開設。 |
| 1962 | ビジネススクール設置。言語文化研究所発足。 |
| 1965 | 財団法人慶應がんセンター発足。 |
| 1967 | 医学部創立50周年記念式典。三田演説館、重要文化財に指定。 |
| 1969 | 慶應義塾図書館、重要文化財に指定。塾史資料室設置。 |
| 1975 | 中等部にてユニコーン像復元。 |
| 1976 | カナダ政府寄贈のカナダ講座設置。 |
| 1977 | 厚生女子学院(看護専門課程)開設、専修学校となる。 |
| 1978 | 大学院経営管理研究科設置。大学帰国子女入学規程制定。 |
| 1981 | 工学部を理工学部に改組。 |
| 1982 | 慶應義塾図書館(新館)開館。 |
| 1988 | 女子厚生学院を改組して慶應義塾看護短期大学看護学科が開学(募集は平成12年度まで)。 |
| 1990 | 湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を新設。 |
| 1991 | 総合政策研究所・環境情報研究所・言語コミュニケーション研究所開設。 |
| 1994 | 大学院政策・メディア研究科修士課程開設。 |
| 1996 | 大学院政策・メディア研究科後期博士課程開設、総合政策研究所・環境情報研究所・言語コミュニケーション研究所をSFC研究所に改組。HUMIプロジェクト発足。第1回慶應医学賞授賞式。 |
| 2001 | 看護短期大学を看護医療学部に改組。看護短期大学の募集を停止。 |
| 2002 | 湘南藤沢キャンパスに教職課程設置。 |
| 2004 | 大学院法務研究科(法科大学院)を開設。 |
| 2005 | 大学院健康マネジメント研究科修士課程開設。 |
| 2007 | 大学院健康マネジメント研究科後期博士課程開設。図書館蔵書デジタル化でGoogle社と提携。 |
| 2008 | 学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併、薬学部と大学院薬学研究科を設置。同年大学院システムデザイン・マネジメント研究科と大学院メディアデザイン研究科を開設。イギリスのチャールズ皇太子が三田キャンパスを訪問。大阪市福島区中之島の再開発地区「ほたるまち」に、「慶應大阪リバーサイドキャンパス」を設置。慶應義塾創立150年記念式典にて今上天皇・皇后が臨席、天皇が「おことば」を述べる[33]。 |
| 2009 | ダボス会議にて「東大・慶應レセプション」を開催[34]。東京工業大学との副専攻制度、単位互換、学生交流が開始[35][36]。 |
| 2010 | MBA連携協定を、京都大学経営管理大学院、神戸大学大学院経営学研究科の3校で締結[37]。 |
[編集] 基礎データ
[編集] 所在地
- 三田キャンパス(東京都港区)
- 日吉キャンパス(神奈川県横浜市港北区)
- 信濃町キャンパス(東京都新宿区)
- 矢上キャンパス(横浜市港北区)
- 湘南藤沢キャンパス(神奈川県藤沢市)
- 芝共立キャンパス(東京都港区)
- 新川崎タウンキャンパス
- 鶴岡タウンキャンパス
- 浦和共立キャンパス
- 慶應大阪リバーサイドキャンパス
- 慶應丸の内シティキャンパス
[編集] 象徴
[編集] 校歌
- 校歌は慶應義塾塾歌。
作詞:富田正文、作曲:信時潔。1940年に完成、翌年発表。慶應義塾関係者は「塾歌」と呼び、大学のみならず、一貫教育校(高等学校、普通部、幼稚舎など)を含め、慶應義塾社中で広く歌われている。幼稚舎の授業では塾歌が扱われるため、一貫教育校出身者のほとんどが歌えるようになるが、歌えない外部の塾生も増えてきている。式典で塾歌が必要なときは全員に楽譜が配られる。酒席などで歌われることは無いため、塾生同士の結婚式などでは、かわりに「若き血」が歌われる。
- 旧塾歌
現塾歌が制定されるまで使用された。作詞は角田勤一郎(塾員)、作曲は金須嘉之進による。1904年発表。
- 若き血
若き血(わかきち)は応援歌。作詞・作曲とも堀内敬三。1927年に発表。東京六大学野球連盟の応援では1得点挙げるごとに観客が肩を組み若き血を合唱するなど、スポーツの応援では定番の曲となっている。「塾歌よりも若き血を歌える」という塾生もいる。歌詞の最後にある「陸の王者」は藤山一郎が「りくのおうしゃ(清音)」と歌っていたことから濁らないのが正式である、と塾関係者の一部ではいわれている。しかし、ほとんどの塾生・塾員は「おうじゃ」と濁音で歌っている。なお、携帯電話の着信メロディとしてダウンロードできる。
- ダッシュケイオウ
ダッシュケイオウは応援歌。高校野球など慶應義塾大学とは関係ない学校でも使用される機会もある。
[編集] 校旗・校色
スクールカラーは紺と赤。校旗(塾旗)はペン章を含んだ二種三色の色使いであることから、三色旗とも呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない[38]。明治27年11月26日に旅順口陥落の祝賀としてカンテラ行列を行った際に掲げられていたものが最初であるとされる。なお現在、大学紋章、ペンマーク、塾旗は、それぞれ特許庁に商標登録されており、慶應義塾および慶應義塾大学のサービスマークとして法的に保護されている。
[編集] 紋章
エンブレムは、「ペンマーク」と呼ばれ、二つのペンを右を上にして斜めに交叉させたマークである。大学内にあるマンホールまでこのシンボルマークが使われている。1990年(平成2)年、交換留学協定校であるオーストラリア・クイーンズランド大学からの申し出をきっかけに、慶應義塾大学の新しい紋章が制定された。クイーンズランド大学キャンパス中庭を囲む回廊の石柱の一本一本には、それぞれ世界の著名大学の紋章が刻まれている。同大学の申し出とは、その一本に慶應義塾大学の紋章を加えたいというものであった。このような経緯により考案された新紋章のデザインは、ペンマークと塾旗の色調を基調として、英文大学名、義塾の創始年とペンマークの由来となった「ペンは剣よりも強し」という成句のラテン語表記“Calamvs Gladio Fortior”から構成されている[39]。
[編集] マスコット
マスコットはユニコーン。三色旗の上に描かれたものが応援の際などに使われる。慶應義塾のアメリカンフットボール部や、バスケットボール部の愛称もユニコーンズである。かつて三田山上にあった大講堂正面玄関屋上に設置されていた。1975年(昭和50年)に大講堂取り壊し後に保存されていた一基のユニコン像が中等部卒業生の寄附を元に修復、中等部玄関に設置された。1978年(昭和53年)には慶應義塾商工学校同窓会によって復元像が一基寄贈された。
[編集] 赤煉瓦
長年にわたり 慶應義塾の知のシンボルとして大きな役割を果たしてきたとされている赤煉瓦。幕末に伝来した煉瓦建築は、地震国であるわが国では、明治・大正までの短い期間しか造られておらず、しかも災害などでその多くは現存していない。そのため、赤煉瓦と花崗岩による図書館(旧館)は、日本人によって設計された明治末年の代表的な西洋建築として極めて貴重な建造物である。設計・監督は曾禰達蔵と中條精一郎。大講堂は東京大空襲で全焼してしまい、現在は西校舎が建っている。戦後、象徴的な赤煉瓦建築を再興しようと、平成12年に東館が完成した[40]。
[編集] 教育および研究
[編集] 学部
- 文学部
- 人文社会学科
- 哲学系
- 哲学専攻
- 倫理学専攻
- 美学美術史学専攻
- 史学系
- 日本史学専攻
- 東洋史学専攻
- 西洋史学専攻
- 民族学考古学専攻
- 文学系
- 国文学専攻
- 中国文学専攻
- 英米文学専攻
- 独文学専攻
- 仏文学専攻
- 図書館・情報学系
- 図書館・情報学専攻
- 人間関係学系
- 社会学専攻
- 心理学専攻
- 教育学専攻
- 人間科学専攻
- 哲学系
- 人文社会学科
- 経済学部
- 経済学科
- 法学部
- 法律学科
- 政治学科
- 日本国内の政治学科としては教員数及び科目数が最多である[41]。
- 商学部
- 商学科
- 医学部
- 医学科(6年制)
- 理工学部
- 機械工学科
- 電子工学科
- 応用化学科
- 物理情報工学科
- 管理工学科
- 数理科学科
- 物理学科
- 化学科
- システムデザイン工学科
- 情報工学科
- 生命情報学科
- 総合政策学部
- 総合政策学科
- 環境情報学部
- 環境情報学科
- 看護医療学部
- 看護学科
- 薬学部
- 薬学科(6年制)
- 薬科学科
- 通信教育部
[編集] 文学部
蘭学塾として出発した当初から語学校としての性格を持っており、英学塾にも持ち越され、ドイツ語・フランス語の専門学を始めた。明治九年刊行の『日本開花史』(平山果・宮内貫一編)には当時の高い世評漢詩が載っている。旧制大学時代に設置されていた文学科を新制大学時に改組して設置した学部。理財・法律と並んで慶應義塾で最も古い伝統を持つ。1910年(明治43年)に哲学、史学、文学の3専攻を興す。特徴として、入学時は全員が人文社会学科に所属し、2年進級時に17専攻を選択できるという点があげられる。また、三田文学会の機関誌として三田文学を発行し、三田文学新人賞を主催している。1921年(大正10年)創刊の史学をはじめ、哲学1926年(昭和元年)、藝文研究1951年(昭和26年)、Library and information science1963年(昭和38年)などの紙媒体を持ち、教員の研究成果を発表している。
[編集] 経済学部
[編集] 理財科
Economics(理財科)の歴史を汲む学部で、「天下国家を論ずるよりも実学ではあるがまず科学」といわれる。Political Economics(経済)の語源は「経世済民」であって政治的なニュアンスがある。理財は、江戸時代の藩による「士民撫育」という哲学を支える理念として、『理財論』に述べられている。「事の外に立ちて事の内に屈せず」・「義を明らかにして利を計らず」とある。明治には、「哲学政治学及び理財学科」となる。日本最古の経済学の伝統を体系化する学部で、戦前には、あまたの「慶應経済人」と称される卒業生を輩出した。Garrett Droppers(ドロッパース)が初代教授として就任し、後任はヴィッカース。経済学原理をはじめ近世経済史、財政論、保護及自由貿易史、経済学諸派概論等の重要科目は、ドロッパースひとりで担当した。適切な訳語「理財学」が「国を治め民を救う」に変更されると、我が国では経済学を「国民経済学」、それに対して、会計学・経営学を「私経済学」とした。
[編集] 経済学科
旧制大学時代に設置されていた理財科を新制大学時に改組して設置した学部。大正9年、理財科が経済学部と改称してから、昭和4年さらに学課改定が行なわれ、経済学部は経済学科と商業学科とに二分された。選択科目に二分して甲、乙2班が設置されるようになった。環境経済学などの他の大学では余り開講されていない学問分野もある。Professional Career Programmeという、経済学教育を英語で行うということを特色としたプログラムが用意されている。授業はもとより、教員やTAとの連絡や会話も英語で行われている。これによって、英語力の強化と経済学を強みにしたキャリア構築の可能性を学生に提供している。PCPとしては、国内外の専門大学院進学の基礎となる力を身につけることを目標に掲げている。また、東京工業大学との単位互換を行っている。
[編集] 法学部
[編集] 法律学科
英米法を日本語で教授する夜間法律科を旧山口藩士児玉淳一郎の発案で、1879年(明治12年)12月に我が国で初めて発足させたもの(最初の講義は相馬永胤)が法律科の源流となっている[42]。1890年(明治23年)に大学部法律科として再出発し、ハーバード大学の教員を迎え入れた。成績優秀者は飛び級で大学院進学が可能。創立以来、官界・法曹界・政治家(国会議員)へコンスタントに人材を輩出している。近年、法曹界や高級官僚に進む卒業生が増加しており、併設する法科大学院卒業生の平成20年度新司法試験合格率では一橋大学法科大学院に次いで2位、東京大学法科大学院を上回った。合格者数では3位であった[43]。
[編集] 政治学科
政治科創立にあたっては試行錯誤があり、徳川幕府の庇護にあった義塾は明治政府に仕官することをためらっていた。これは武士の名残で「二君に仕えず」という初一念があったものである。武士的教養から華々しく活動する事をあまり好まない傾向があったが、日本憲政史上特筆すべき尾崎行雄と犬養毅を育てている。また当時日本には政治学が科目には無く「国家学」の名をもっていた。120名の専任教員を持ち、我が国の政治学科としては教員数及び科目数が最多である。
[編集] 商学部
学部設立は1957年、慶應義塾創立100周年を機に行われた。しかし、商学研究自体は、1873年に福澤諭吉がアメリカの商業学校で使用されていた『ブックキーピング』という教科書を『帳合之法』という翻訳書として発行した[44]時点まで遡る。なお、明治11年に設置し、商学の先駆を成した分校「三菱商業学校」又は明治義塾からの歴史を汲む。1935年には経済学部内に経済学科(甲科)とは別に商業学科(乙科)が開設されている[45]。これは福澤諭吉の建学の精神の一つである「実学」を最も体現すると言われている学部と自負し、経営、会計、商業、経済・産業の4つの領域からなる。
[編集] 理工学部
[編集] 工学部
昭和11年、塾長小泉信三がハーバード大学創立300年祝典に参列するため渡米し、各地の諸大学を視察、急激に発展向上しつつある工学一般の趨勢を見聞して帰朝し、義塾に工学部を設立することのいよいよ急務なるを説いた。これにより、当時の理事である楓智雄が中心となって設立の研究蘭査を始め、着手することになった。王子製紙社長の塾員藤原銀次郎は、各国の製紙工業等をつぶさに視察し、その長短を比較研究して、わが国製紙工業はもとより、工業界全般の発展のために思いをめぐらせていたが、たまたま昭和10年、アラスカに出張した帰途、スタンフォード大学を見学し、この大学の来歴に深い感銘を受けて帰朝。さらに日本の諸大学の工学部をもくわしく視察し、みずから日本に理想的な大学を設立してあたかもスタンフォード大学のスタンフォードたらんとひそかに決するところがあった。一方、藤原はかねてより評議員として義塾の教育にも深い関心をよせていたのであるが、ここにおいて慶應義塾の意図するところと藤原の意図するところと一致するものがあり、小泉と藤原の折衝が始まり、ようやく意見の一致を見るに至って、財団法人藤原工業大学を創立し、その大学の教育はこれをあげて慶應義塾に一任することとなり、校舎も日吉の義塾構内に建設することとなった。かくて小泉信三が学長、楓智雄が理事、藤原銀次郎が理事長となって藤原工業大学が発足した。そして、創立後一応目的を達成したるとき、または藤原なきのちはこの大学の全部が義塾に寄付されることとなっていたのである。
[編集] 理工学部
工学部を受け継ぎ、1981年(昭和56年) 理工学部に改称。物理学科、化学科を開設。数理工学科を数理科学科に改組。 第二次世界大戦後、財団法人慶應工学会が発足。現在の土地のうち2千坪を北海道炭礦汽船から寄贈された。
入学制度の特色として、学門制度を取り入れている。入学時に5つある学門の何れかに所属し、それぞれの特色により進学できる学科が異なる。もちろん講義の必修科目にも多少違いがある。一年次に進路を考え、二年次にそれぞれの特色に沿った学科に進学することで、進路の幅にやや余裕が持てるメリットがある。 研究大学らしく学部卒業生の7割が大学院に進学する。研究は徹夜で取り組むことも多いために一晩中電気が点いている様から「不夜城」の異名をとる。
また、Youtubeに専門チャンネルを開設している[46]。
[編集] 沿革
- 1939年 - 藤原銀次郎により藤原工業大学(機械工学科・電気工学科・応用化学科)が開校。
- 1944年 - 藤原工業大学が慶大に寄付され工学部となる。
- 1972年 - 現在の矢上キャンパスに移転。
- 1971年 - 松下幸之助氏より寄付を受け、松下記念図書館竣工。
- 1981年 - 工学部から理工学部に改組。
[編集] 使用キャンパス
理工学部1、2年生はここで他学部生と共に学ぶ形となっている。
矢上キャンパスは日吉キャンパスのすぐ北側に位置する。理工学部3、4年生および研究科生はここでより専門的な教育を受け、または研究活動もここで行う。
[編集] 医学部
[編集] 医学所
慶應義塾では慶應義塾医学所発足前から幾人かの洋医を養成している。(足立寛陸軍軍医総監、松山棟庵、安藤正胤、印東玄得、近藤良薫) 当時、西洋医学を教授する医学校は大学東校1校のみでイギリス医学をしりぞけてドイツ医学を採用し、通用語としては英語がよいだろうけれど、医学はなんといってもドイツに限るといった定評がこのころあった。医学所は、もっぱら英国医学教授を試み、これは全く異例のことであった。
「慶應義塾医学所」を参照
明治13年6月、ついにこれは廃止された。出身者らはながい間、金蘭会と称して時々同窓会を開いていた。また、今日の慈恵会の病院は松山棟庵、隈川宗悦ら、この医学所関係の者がのちに志をあわせて基をつくったもので、その学流は東京慈恵会医科大学に亜流の形で伝わっていることになる。
[編集] 歯科医学
日本における歯科医師の第1号登録者小幡英之助や、日本最初の歯科医学教育機関の設立者高山紀斎やその継承者血脇守之助などは、いずれも慶應義塾の学窓から巣立った若者であった。明治初年のわが国では、歯の治療をする者は口中科とよばれ、専門の教育機関も設けられてなかった。そのため、歯科医たらんと志すものはまず開業歯科医師の門に入り、徒弟を勤める傍ら、師匠の技術を修得した。
高山紀斎はサンフランシスコの開業医の下で修業し、帰国後、開業すると同時に多くの門下生を育成し、歯科の専門書を刊行し、明治23年1月には、伊皿子の自宅の隣地に日本における最初の歯科医学の教育機関である高山歯科医学院を創設した。その後、門下生の血脇守之助は、新聞記者や英語の教師をした後、高山の学校に入学して歯科医となり、同学院を継承して東京歯科医学院と改称した。これが現在の東京歯科大学の前身である[47]。
[編集] 医学科
医学部は、1917年(大正6年)、福澤諭吉の遺志をくみ、北里柴三郎を初代学部長として設立された。北里柴三郎が描いた理想的な医学教育機関を創立した。皇室から三万円、三井財閥からも支援十万円を受け、教授陣には北里研究所員を中心とする医学部主事北島多一ら門下生があげて参加し、その陣容を整えた。また、秦佐八郎、志賀潔ら日本の冠たる医学者が教鞭をとってきた学部でもある。
慶應義塾大学では看護学系が看護医療学部として分かれているため、医学科のみが置かれている。6年教育であり、日吉キャンパスで主に一般教養を、信濃町キャンパスで医学を学ぶ。2001年度入学生までは信濃町キャンパスが2年の秋学期一部から(2年次の秋学期の特定曜日のみ信濃町で解剖学などの実習)だったため、旧制大学時代に倣って1,2年を予科1、2と呼び、3、4、5、6年を学1、2、3、4と呼ぶ。基礎医学と臨床医学の連携のもと、患者側の視点に立った臨床のための医学の発展を目的として設立されている[2]。医学部6年生の夏休みにアメリカのメディカルスクールに短期留学できるほか、ラテンアメリカなどの医学部での交流プログラムがある。また、低学年の間にも海外の他大学[48]との交流会などが用意されている。また、ロックフェラー財団からの慶應義塾への寄付は戦前戦後を通じてしばしばあり、なかでも医学部のうけた恩恵は特に大きく、昭和初年だけに限ってみても予防医学教室の建設、あるいは医学部関係の留学生派遣、いずれも同財団のフェローシップによるものであった。さらに、生物学の訪問教授招聴を準備し、それによってデューク大学の生物学教授パースら5名が来任し、医学部で講義を担当した。
北里大学、済生会、国立がんセンター、独立行政法人国立病院機構東京医療センター、東京慈恵会医科大学、国家公務員共済組合連合会立川病院など慶應義塾とゆかりの深い医療機関が存在する。
[編集] 沿革
- 1870年 - 慶應義塾の塾生前田政四郎の希望により、福澤諭吉が英国式の医学所の開設を決定する。
- 1873年 - 慶應義塾内に医学所を開設する。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を訓練の場所とした。
- 1880年 - 医学所が閉鎖される。
- 1916年 - 慶應義塾に医学部の創設が許可される。
- 1917年 - 医学部予科1年生の募集開始。初代の医学部長として北里柴三郎が就任する。
- 1920年 - 医学部が大学医学部に昇格。医学部校舎と附属病院が信濃町に新築される。
- 1937年 - 北里記念医学図書館が創立される。
[編集] 使用キャンパス
医学部1年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。
2年生より6年生までは、ここで臨床医学を身につける。
[編集] 薬学部
共立薬科大学が母体。長年の蓄積をベースに医学部、看護医療学部、理工学部などと連携することで、創薬から臨床までを一貫して追求できる環境が整った。
[編集] 総合政策学部・環境情報学部
「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」を参照
総合政策学部と環境情報学部は湘南藤沢キャンパスにおいて、他の学部とは大きく違った独自の教育が実施されている。この節では両者に共通する特徴などをまとめる。
[編集] 基本理念
「創造性の重視」「問題発見・解決型」。今の世の中に存在する雑多な諸問題を発見・解決していく人材を創出することを目的としている。その為、従来のリベラルアーツと専門知識の詰め込みだけではなく、研究プロジェクトを中心に置き、その中で見えてくる学生自身が足りない必要な知識 (カリキュラム) を見つけ、取得し、補いながら研究を進めていくという、従来とは全く違う独創的なスタイルの構築を関係者は意図している。
[編集] 特徴
大学では「学問の再編成」をキーワードとして自由度の高い履修システムを使用している。基本的に各授業には学年による履修制限を課さず、学部1年生から専門的な授業を履修できる。また、学部と大学院で共有する授業を多く設置している。
また、「半学半教」の理念から学生、特に学部生の雇用に積極的である。具体的には図書館スタッフ、コンピュータやマルチメディアの相談員、キャンパス内の設備利用ガイドの編集員、教育補助員(学部生はSA、院生はTAと称する)などである。
湘南藤沢キャンパス内にある湘南藤沢中・高等部と大学の連携として、湘南藤沢中・高等部の「ゆとりの時間」という選択授業の中で一部大学授業を履修できる。
[編集] 通信教育課程
戦後、設置にあたって連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)から日本にも通信教育の制度を行なってはどうかという勧めがあった。これは、もちろん社会教育から大学を含めた学校教育に至る通信教育を意味したもののようで、ことに大学の通信教宥については国立のものは予算その他の関係で困難であろうから私立大学で研究して欲しい。慶應義塾あたりがこの制度を実施してくれれば、という希望がCIEや文部省にあったということであった。このようなことから、前記の計画を通信教育一本にまとめて踏み切ることになり、文科系の文、経、法の三学部に実施する方針が立てられた。
財団法人私立大学通信教育協会に加盟している。慶應義塾大学本部のある三田キャンパスに事務局がある。 通信教育部とは、慶應義塾大学通信教育課程を総括している組織であり、通信教育課程そのものは各学部に属する。そのため、「慶應義塾大学通信教育部文学部哲学専攻」は誤りであり、「慶應義塾大学文学部哲学専攻通信教育課程」が正確な表記となる。他例、「慶應義塾大学経済学部通信教育課程」(経済学部は専攻または学科が定められていない)、「慶應義塾大学法学部法律学科通信教育課程」など。
2008年までスクーリングが三田キャンパスと日吉キャンパスの2つしか受講ができなかったが、E-スクーリングの授業を大幅に拡大したり、2009年9月から大阪リバーサイドキャンパスにて大阪スクーリングが受講できるようにするなど、社会人や地方の学生に対して授業が受けやすいように緩和し、少しでも卒業できるような体制になるようサポート体制を強化している。
- 学部構成
- 入学の種類及び入学資格
- 入学選考は基本的には書類選考だが、学問領域関連書籍の論評などを含む志望理由書を提出する必要がある。
- 普通課程
- 高等学校卒業または見込み者
- 高等学校卒業程度認定試験(大検含む)合格者。
- 大学入学資格が付与されている専修学校高等課程の卒業者または見込み者。
- 特別課程
- 学士入学
- 入学式
- 三田で行われ、入学オリエンテーションは、札幌・仙台・名古屋・大阪・岡山・福岡の各地で開かれる。
- スクーリング
- 夏期スクーリング
- 夜間スクーリング(毎年概ね9月下旬から12月中旬まで毎週月曜日から金曜日までの18時~20時まで東京の三田校舎で実施されている。)
- 実験スクーリング(夏期において日吉キャンパスで行われる。希望者のみ受講できる。学士入学者は受講不可)
- 体育実技スクーリング(選択制で4単位まで卒業所要単位として加算される。日吉キャンパスにて夏期に行われる。冬期にはスキースクーリングもある)
- 通年スクーリング(通学課程の授業を受けられる特別なスクーリングで、受講には一定の条件が必要。)
- 地方スクーリングはないので、東京の三田キャンパスと横浜の日吉キャンパスまで通学する必要がある。
- 単位修得試験
- 年に4回行われる。三田キャンパス以外でも行われている。各群1科目、合計最大6科目まで受験できる。
- 卒論が必修で8単位ある。
- 慶友会
- 卒業生の同窓会組織として慶友会を持つ。
[編集] 大学院
- 文学研究科
- 経済学研究科
- 法学研究科
- 社会学研究科
- 商学研究科
- 医学研究科
- 理工学研究科
- 政策・メディア研究科
- 健康マネジメント研究科
- 経営管理研究科(経営大学院に改組予定)
- 経営管理研究科は、1978年に大学院経営管理研究科経営管理専攻として設立認可を受け、日本初の2年制MBAコース(大学院修士課程)として設立された。略称をKBS(KEIO Business School)という。米国のハーバード・ビジネス・スクールに倣ったケースメソッドを主として採用した教育を行い、2000年4月、日本で最初にAACSBからの認証を取得している[49]。米国のビジネス・スクールと同様、大学の学部を卒業したばかりの者の入学は前提としておらず、数年以上の実務経験を有する社会人の教育を対象としたカリキュラムが組まれている。MBA取得のためには、社会人が、退職して、もしくは2年間休職して(あるいは企業派遣で)フルタイムでカリキュラムに参加する必要がある。修士課程修了者にはMBA(経営学の修士号)が授与される。通称は慶應ビジネス・スクール。略称はKBS。教室は2008年9月より協生館へ移転している。さらにESSECと協定を結び、2009年度から双方の学生が転籍することなく、両校で1年ずつ学ぶことで両校の学位を同時に取得可能とするプログラムを開設予定である[50][51]。
- 法務研究科(法科大学院)
- メディアデザイン研究科
- システムデザイン・マネジメント研究科
- 薬学研究科
[編集] 附属機関
- 総合医科学研究センター
- 先端科学技術研究センター(KLL)
- グローバルセキュリティ・リサーチセンター(G-SEC)
- 総合研究推進機構
- 国際連携推進機構(OGI)
- デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構(DMC)
- 日本語・日本文化教育センター
- 法学研究所
- 言語文化研究所
- メディア・コミュニケーション研究所(旧新聞研究所)
- SFC研究所
- 産業研究所
- 東アジア研究所
- 先端生命科学研究所
- 体育研究所
- 附属研究所斯道文庫
- 福澤研究センター
- 国際センター
- アート・センター
- 教職課程センター
- 外国語教育研究センター
- 教養研究センター
- スポーツ医学研究センター
- 保健管理センター
- 研究推進センター
- 知的資産センター
- インキュベーションセンター
- 研究支援センター本部
- 三田研究支援センター
- 日吉研究支援センター
- 矢上研究支援センター
- 信濃町研究支援センター
- 湘南藤沢研究支援センター
- 先端研究教育連携スクエア事務室
- 慶應義塾大学病院
[編集] 出版会
慶應義塾大学の出版部門として慶應義塾大学出版会がある。慶應義塾大学出版会は組織的に独立した株式会社であり、大学の附属機関ではない。しかしながら慶應義塾大学関係の書籍を出版するなど、大学本体との関わりが深いので、本節においてまとめた。詳細は該当記事を参照のこと。
[編集] 研究
日本学術振興会(JSPS)事業
[編集] 21世紀COEプログラム
- 採択12件
- 2002年
- 生命科学
- システム生物学による生命機能の理解と制御
- 化学材料科学
- 機能創造ライフコンジュゲートケミストリー
- 情報電気電子
- アクセス網高度化光・電子デバイス技術
- 人文科学
- 心の解明に向けての統合的方法論構築
- 学際複合新領域
- 次世代メディア・知的社会基盤
- 2003年
- 医学系
- 低侵襲・新治療開発による個別化癌医療確立
- 幹細胞医学と免疫学の基礎・臨床一体型拠点 -ヒト細胞とin vivo 実験医学を基盤とした新しい展開-
- 数学物理学地球科学
- 統合数理科学、現象解明を通した数学の発展
- 機械土木建築その他工学
- 知能化から生命化へのシステムデザイン
- 社会科学
- 市場の質に関する理論形成とパネル実証分析
- 多文化多世代交差世界の政治社会秩序形成ー多文化世界における市民意識の動態
- 日本・アジアにおける総合政策学先導拠点
[編集] グローバルCOEプログラム
- 採択7件
- 2007年
- 生命科学
- In vivo ヒト代謝システム生物学拠点
- 情報電気電子
- アクセス空間支援基盤技術の高度国際連携
- 人文科学
- 論理と感性の先端的教育研究拠点形成
- 2008年
- 医学系
- 幹細胞医学のための教育研究拠点
- 機械土木建築その他工学
- 環境共生・安全システムデザインの先導拠点
- 社会科学
- 市場の高質化と市場インフラの総合的設計
- 市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点
[編集] 世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進事業
- 採択1件
- 平成19年
- 中央アジア
- 中央アジアにおける環境共生と日本の役割-価値創造に基づく地域研究のあり方-
[編集] 組織的な大学院教育改革推進プログラム
- 採択2件
- 平成20年
- 人文社会学系
- 社会イノベータ育成コースの創設
- 医療系
- 創薬に向けた医薬科学を先導する人材の養成
[編集] 質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)
- 採択2件
- 平成20年
- メディカルプロフェショナリズム教育の推進
- ユビキタス社会の問題発見解決型人材育成
[編集] 学生生活
[編集] 部活動・クラブ活動・サークル活動
[編集] 学園祭
各キャンパスごとに、「三田祭」(三田キャンパス)、「四谷祭」(信濃町キャンパス)、「矢上祭」(矢上キャンパス)、「七夕祭」、「秋祭」(湘南藤沢キャンパス)、「共薬祭」(芝共立キャンパス)が開催されている。
このうち、三田祭が最大規模であり、他キャンパスの学生も多く参加する。慶應義塾大学が公式に「学園祭」としているのは三田祭のみである。その他のキャンパスごとのイベントは有志によるものに過ぎないとされているが、実質的には「学園祭」として認知されており、慶應義塾大学の受験生向けパンフレットなどにも紹介されている。
なお、日吉キャンパスで行われる日吉祭は慶應義塾高等学校の文化祭である。
[編集] 三田祭
三田祭は、毎年11月23日前後に例年4日間行われる。運営しているのは三田祭実行委員会。三田祭の規模は大学祭では日本国内最大である。三田祭のイベントとして行われるミスコンテストの優勝者『ミス慶應』は、その後女子アナやタレントになることが多い。また、東京六大学学園祭連盟に加盟している。
歴代ミス慶應(芸能活動への進出が確認された受賞者のみ)
| 年 | 名前 | その後の活動 |
|---|---|---|
| 1995 | 與芝由三栄 | NHKアナウンサー |
| 1996 | 末吉里花 | タレント |
| 1997 | 山田玲奈 | タレント |
| 1998 | 籠島範子 | 歌手(ソニーミュージック所属) |
| 1999 | 中野美奈子 | フジテレビアナウンサー |
| 2000 | 鈴江奈々 | 日本テレビアナウンサー |
| 2001 | 青木裕子 | TBSアナウンサー |
| 2006 | 竹内由恵 | テレビ朝日アナウンサー |
| 2008 | 本山華子 | タレント |
このように華やかさばかりに目が向けられる三田祭であるが、三田祭発表として経済学部・商学部・法学部・文学部・メディア・コミュニケーション研究所のゼミナール論文発表なども行われており、3年生の活動の中心に置くゼミも多い。
三田祭開催の1~2週間前には、前夜祭がほぼ毎年行われており(前夜祭のみ日吉キャンパスで行われる)、有名人のコンサートが開催される。
歴代前夜祭出演アーティスト
| 年 | 名前 |
|---|---|
| 1981 | 松任谷由実 |
| 1982 | 佐野元春・山下久美子 |
| 1983 | 沢田研二 |
| 1984 | 時任三郎 |
| 1985 | 稲垣潤一 |
| 1986 | 渡辺美里 |
| 1987 | 杉山清貴 |
| 1988 | 久保田利伸&Mother Earth バブルガムブラザーズ |
| 1989 | 米米CLUB |
| 1990 | 安全地帯 |
| 1991 | スターダスト・レビュー |
| 1992 | 森高千里 |
| 1993 | 佐野元春 |
| 1994 | 谷村有美 |
| 1995 | 今井美樹 |
| 1996 | 井上陽水 with RISKS |
| 1997 | 中止 |
| 1998 | 小田和正 |
| 1999 | 知念里奈・篠原ともえ |
| 2000 | 中止 |
| 2001 | 中島みゆき |
| 2002 | 中止・三田祭本祭初日にシークレットライブとして相川七瀬 |
| 2003 | 松浦亜弥 |
| 2004 | CHAGE and ASKA |
| 2005 | MISIA |
| 2006 | TRF |
| 2007 | ORANGE RANGE |
| 2008 | 倖田來未 |
| 2009 | FUNKY MONKEY BABYS※この年は日吉記念館が工事のためSHIBUYA-AXで開催 |
塾員(卒業OB・OG)の多くが母校の文化祭を訪れるのが慶應の伝統であり、三田祭の開催時には三田キャンパス付近の桜田通りや日吉駅周辺が、慶應の校章が描かれている紙バックを持った塾員で賑わう。
[編集] 七夕祭
湘南藤沢キャンパスで七月の第一土曜日に毎年開かれる学園祭。 湘南藤沢キャンパス開校時から続いており、2010年度で21回目の開催となる。
花火や縁日的な出店、御輿などの夏祭りをテーマとした企画が中心。 また学生と大学周辺地域との協力を目的としていることが特徴である。
[編集] スポーツ
体育会の正式名称は「慶應義塾體育會」(けいおうぎじゅくたいいくかい)である。「慶應義塾大学体育会」としている文献が存在するが、正式名称では「大学」の語は使用しない。2008年現在、40部54部門が所属している。体育会各部間の意見交換や、体育会全体に関わる会議・行事の企画・進行や広報活動を行う組織として、體育會本部を置く。体育会部員から選出された常任委員がこうした業務に携わっている。また、体育会事務室という慶應義塾大学の部署が設置され、専任の大学職員が常駐している。体育会事務室は学生主体の體育會本部と連絡を取りながら体育会の運営をサポートしている。
- 東日本医科学生総合体育大会の発起大学であり、定期的に対抗戦を行っている。
- 野球部は東京六大学野球連盟に加盟しており、東京六大学野球が発祥する大元となった慶早戦は大学野球ファンの間では著名である。なお、大学野球における慶早戦の盛り上がりがきっかけとなり、ラグビー部や端艇部(ボート競技)でも慶早戦が行われるようになった。詳細は慶早戦を参照。
- 箱根駅伝では、1932年に優勝している。
- ラグビー部は慶應義塾體育會蹴球部が正式名称である。1899年創立であり、日本ラグビーフットボール協会では「日本ラグビーのルーツ校」[52]としている。関東大学ラグビー対抗戦グループに所属している。
- サッカー部はソッカー部が正式名称。サッカー関係者には伝統校として著名である。
- バスケットボール部の愛称はユニコーンズ。全日本学生バスケットボール選手権大会初代王者でもある。
- アメリカンフットボール部の愛称も「ユニコーンズ」である。関東学生アメリカンフットボール連盟に所属している。
- ラクロス部は1985年に日本初のラクロス部として創設され、特に男子ラクロス部は全日本優勝5回、関東学生リーグ優勝15回という成績を残している。
[編集] 園遊会
園遊会は、学位授与式(卒業式)の後に開催される卒業パーティーである。慶應義塾大学卒業準備委員会が主催している。パーティーで行われる抽選大会の1等賞品は毎年通例として外車である。このような豪華な賞品を出すことについて、一部卒業生や大学教職員の間からは必ずしも賛同の声ばかりが寄せられるわけではない。2006年現在、会費は2万円強で参加は任意である。賞品はOBが役員を務める企業からの寄付が多い。卒業準備委員会の粗雑な財務管理や園遊会参加後の卒業生の行為による苦情から、2009年3月からの園遊会の開催は一旦中止となり現卒業準備委員会も解散することとなった[53]。
なお、解散した卒業準備委員会とは別の有志による団体が、2009年3月以降も(非公式ではあるが)園遊会を存続させるための活動を行っている。[54] 日吉記念館の工事延期に伴い2009年度卒業式の会場が、予定されていた卒業式の会場(パシフィコ横浜)から同館となる可能性が高まり、卒業式の予定そのものが不確定となった。これによって園遊会の会場となる舞浜のホテルの予約が現段階で確定できないことが判明し、2009年度園遊会は中止となることが決定された[55]。
- テイクオフラリー
- SFC(湘南藤沢キャンパス)では、キャンパス開設当初から独自の卒業パーティーが開催されている。2009年、園遊会の中止によって慶應義塾大学における公式の卒業パーティーはテイクオフラリーのみとなった。
[編集] 大学関係者と組織
[編集] 大学関係者組織
慶應義塾では、在学生を「塾生」、卒業生を「塾員」、学生・卒業生・教員などの関係者を総称して「社中 (または義塾社中)」と呼ぶ。また、福澤諭吉を除いては、敬称を「君(くん)」とする習慣がある[56]。これは、慶應義塾において「先生」は福澤諭吉ただ一人であるという思想から発生したもので、現在も構内掲示などの教員名は「~君」表示になっているほか、慶應義塾の公式文書においてもしばしば「君」表記が使用される[57]。明治期においては生徒は教師に向かっては「さん」付けが一般で、それ以外は塾長、教頭、その他の古参教員でも等しく「--さん」が一般に用いられた[58]。
慶應義塾における「塾長」とは、慶應義塾大学の学長と学校法人慶應義塾の理事長を兼ねており、慶應義塾内で学長や理事長と言った呼称が使われることはまずほとんどない。
[編集] 三田會
三田會(みたかい)は慶應義塾大学の卒業生(塾員)による同窓組織。卒業生でなくとも教員として在籍した者として入会できる場合もある[59][60]。現在各種三田会総数は865団体あり、約28万人の塾員の多くがこうした三田会に所属している。島田裕巳は三田会について他大学に例を見ない強固な団結力を誇り、生涯に渡って塾員としての誇りとアイデンティティを共有する基盤となっている旨のことを著作に記している[61]。数多くある三田会のうち、代表的なものは次のとおりである。
- 年度三田会 (73団体)
- いわゆる「同期会」に相当するもので、同年卒業生の塾員で構成され、大学卒業と同時に入会する。この三田会最大のイベントは、卒業25年目にその年の卒業式に、50年目に入学式に招待されること。つまり慶應を卒業すると、一生のうちに2度入学式・卒業式に参列できることになる。
- 地域三田会 (国内231団体・海外57団体)
- 各地域ごとの塾員で結成される三田会。
- 職域三田会 (308団体)
- 三田法曹会、公認会計士三田会、ホテル三田会、歯科三田会や会社ごとの三田会など、同じ職種や職場の塾員によって組織される三田会。
- SFC三田会
- 湘南藤沢キャンパス(SFC)の卒業生による三田会。総合政策学部、環境情報学部、看護医療学部、政策メディア研究科、健康マネージメント研究科の卒業生が卒業と同時に入会。三田会の中で最大級の規模となっている。
- 大蔵三田会
- 大蔵省の国税局関係[62] 。
- 三四会
- 医学部の同窓会。1917年に創設。名称の謂われは「三田」の「三」と医学部の存在する地名の「四谷」の「四」の一字を組み合わせている。
- 紅梅会
1934年設立、看護教育を受けた卒業生による同窓会。
これらを統括するのは、連合三田会と呼ばれる団体である。また、毎年10月ごろには塾員の交流を目的とした連合三田会大会が開催されている。帝国ホテルの地下には「東京三田倶楽部」があり、犬養毅元首相が生前よく足を運んだ事で知られている。
[編集] 連合三田会歴代会長
| 代 | 氏名 | 卒業学部 | 任期 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 初代 | 稲田勤 | 理財科 | 1963年 - 1964年 | 明治生命保険社長、日本相撲連盟会長 |
| 2代 | 松田伊三雄 | 理財科 | 1964年 - 1968年 | 三越社長 |
| 3代 | 武藤治 | 特選 | 1968年 - 1970年 | |
| 4代 | 松田伊三雄 | |||
| 5代 | 中司清 | 経済学部 | 1971年 - 1972年 | 紡績副社長、鐘淵化学工業社長、カネカロン社長 |
| 6代 | 横田郁 | 経済学部 | 1972年 - 1978年 | 日本勧業銀行頭取、第一勧業銀行初代頭取 |
| 7代 | 板倉譲治 | 経済学部 | 1978年 - 1987年 | 三井銀行社長 |
| 8代 | 服部禮次郎 | 経済学部 | 1987年 - | セイコーホールディングス名誉会長 |
[編集] 大学関係者一覧
[編集] 施設
[編集] キャンパス
三田と日吉キャンパス間の交通については、嘗ては東横線・渋谷駅経由で都バスもしくは山手線を乗りついて1時間近く掛かったが、目黒線の日吉延伸後は日吉駅から直通で、白金高輪駅経由で40分弱での行き来が可能になった。
[編集] 三田キャンパス
- 使用学部:文学部2-4年、経済学部・法学部・商学部3・4年
- 使用研究科:文学研究科・経済学研究科・法学研究科・社会学研究科・商学研究科・法務研究科(法科大学院)
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:JR山手線・京浜東北線田町駅、都営三田線・都営浅草線三田駅、南北線・白金高輪駅、麻布十番駅、都営大江戸線赤羽橋駅
慶應義塾中等部が綱坂を挟んで隣接している。また、付近に慶應義塾女子高等学校がある。
[編集] 日吉キャンパス
- 使用学部:文学部・医学部・薬学部1年、経済学部・法学部・商学部・理工学部1・2年
- 使用研究科:経営管理研究科、システムデザイン・マネジメント研究科、メディアデザイン研究科
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン日吉駅
慶應義塾高等学校がキャンパス内に併設されている。また、駅を挟んだ向かい側に慶應義塾普通部がある。慶應義塾大学の学生の間には、他のキャンパスへの進級後に日吉キャンパスの授業を再履修する意味を表す「来日」、留年して日吉キャンパスに留まる意味を表す「在日」、他のキャンパスに進級できず慶應を去る意味を表す「日没」という俗語がある。
[編集] 矢上キャンパス
- 使用学部:理工学部3・4年
- 使用研究科:理工学研究科
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン日吉駅
元は、藤原工業大学のキャンパスで、統合時に慶應義塾大学のキャンパスになった。
[編集] 信濃町キャンパス
- 使用学部:医学部2-6年および看護医療学部3年
- 使用研究科:医学研究科
- 使用附属施設:慶應義塾大学病院、総合医科学研究センター、北里記念医学図書館、信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館内部)
- 交通アクセス:JR中央・総武緩行線信濃町駅
- 構内に「慶應稲荷大明神」が存在し、受験シーズンには慶應諸学校受験者の参拝が見られる。
[編集] 湘南藤沢キャンパス
総合政策学部・環境情報学部の全学年、看護医療学部の1・2・4年、大学院政策・メディア研究科が使用するキャンパスである。
詳細は「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」を参照
[編集] 芝共立キャンパス
- 使用学部:薬学部2-6年
- 使用研究科:大学院薬学研究科
- 使用附属施設:慶應義塾大学薬学部附属薬局、生体防御薬学研究センター
- 交通アクセス:JR山手線・京浜東北線浜松町駅、都営地下鉄三田線御成門駅、都営地下鉄浅草線・大江戸線大門駅
かつて共立薬科大学の本部が設置されていたキャンパス。両学校法人の合併により慶應義塾大学のキャンパスとなった。
[編集] サテライトキャンパス
サテライトキャンパスは学校法人間による統合及びリベラルアーツ教育拠点、産学及び大学間連携を目的にして設置されている。一部の施設は慶應義塾大学の通信制大学の単位認定試験会場でもあり、スクーリングなどの指定会場でもある。サテライトキャンパスとして以下が設置されている。
- 新川崎タウンキャンパス (キャンパス全体が慶應の施設ではない。略称はK2TC)
- 鶴岡タウンキャンパス
- 浦和共立キャンパス
[編集] 対外関係
[編集] 海外出先機関
海外拠点及び、慶應義塾デジタルメディア・コンテンツ総合研究所(DMC機構)が、デジタルコンテンツの国際流通と国際連携の活性化を目指して設置している海外拠点。
[編集] 研究機関との連携
- 先端医療開発特区(スーパー特区)
- 独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)
- 理化学研究所
- 国立遺伝学研究所
- 国立循環器病センター研究所
- 国立情報学研究所
- 五藤光学研究所
- 文部科学省iPS細胞等研究ネットワーク(京大iPS細胞研究センター)
- 特定非営利活動法人国際教育交流協議会(JAFSA)
- 特定非営利活動法人フローレンス
- ルクセンブルグ所得調査(LIS)
- シンガポール国立大学
- Mozilla Japan
- PACS(スーパーコンピューター)
[編集] 国内大学協定機関
- 二大学間協定
- 文部科学省戦略的大学連携支援事業
- 臨床研修プログラム
- 単位互換制度
- 大学院連携協定
- 共同研究
- MBA連携
- 多大学間協定
[編集] 海外大学協定機関
協定締結大学は全てで約200校
- 二大学間協定
- デザインプロジェクトALPS(スタンフォード大学、マサチューセッツ工科大学)
- サシン経営大学院(タイ国立チュラロンコン大学)
- 多大学間協定
- World Wide Web Consortium(日本支部)
- Auto-IDラボ
- 東アジア研究プログラム(Three-Campus Comparative East Asian Studies Program)
[編集] 地方自治体との協定
- 総合協力・協働体制
- 公立美術館との共同研究
- 地域を基盤とした医療・介護・福祉サービスの円滑化・効率化
- 地域起業家養成研修、慶應義塾大学ビジネス・スクールスクーリング
- 教育・研究・医療・国際連携・社会貢献・学生支援
- 京都市における教育の充実・発展
[編集] 民間企業・法人等との協定
研究協力や人材育成などの面での組織的な連携協定及び寄附講座
財団法人
研究協力
- 半導体理工学研究センター(STARC)
- 農林中央金庫
- 三菱地所
- 日本電信電話(NTT)
- 日立製作所
- 東芝
- ソニー
- 日本テレビ放送網
- 日本経済新聞社
- 凸版印刷
- 資生堂
- 三井情報(MKI)
- YKK
- 日本シエーリング(大阪府)
- バイオジェンサーブ(神奈川県)
- のぞみフォトニクス
- Google(アメリカ合衆国)
- BioSigma S.A.(チリ共和国)
寄付講座
[編集] ラジオ番組
日経ラジオ社にて1958年より「慶應義塾の時間」(月曜~金曜22:00~22:30)を放送中。2008年に放送50年を迎えた[63]。
[編集] 系列校
慶應義塾は、大学を頂点とする附属校ではなく、あくまで同一学校法人が運営する独立した学校の集合体という形態を取っている。
[編集] 一貫教育校
慶應義塾では自らの設置する以下の学校へ入学した場合、大学まで全員が進学することを前提に統一したカリキュラムを組んで教育を行っている。そこで、慶應義塾では以下の学校についてはまとめて「一貫教育校」と呼んでいる。以下の学校を卒業すると全員、無試験で大学への推薦入学できる(エスカレーター式)。 これらの学校から推薦入学する生徒は、大学全体の2割以上を占める。
[編集] その他
以下の教育機関は「一貫教育校」ではなく、入試制度も全く他の機関とは水準が異なるため、別のものとして掲載する。
[編集] 幻の李登輝の講演
慶應義塾大学文化団体連盟に所属する経済新人会というサークルが、2002年11月、中華民国(台湾)前総統李登輝を迎える講演会を企画した[64]。日本政府が来日に必要なビザ発給を拒否する構えを示したため、李登輝は訪日を断念して実現しなかった。
[編集] 関連項目
[編集] Wiki関係他プロジェクトリンク
[編集] 公式サイト
[編集] 外部リンク
- 慶應義塾大学病院 (大学病院の理念等の記述あり)
- 慶應塾生新聞
- koara-a慶應義塾史コレクション
[編集] 脚注
- ^ 〔慶應義塾豆百科〕No.4 慶應義塾の起源、慶應義塾大学。
- ^ a b 〔慶應義塾豆百科〕 No.7 塾名の由来、慶應義塾大学。
- ^ 慶應義塾大学の名は旧字体の「慶應」の他、新字体の「慶応」や、「广」の部分以外をKとOに置き換えた「广+K」「广+O」からなる造字で表記することもある。
- ^ 近代日本の大学史
- ^ 慶應義塾入社生徒表1882年
- ^ [慶應義塾豆百科 No.23 慶應義塾医学所]
- ^ [慶應義塾豆百科 No.27 大阪慶應義塾]
- ^ [慶應義塾豆百科 No.29 京都慶應義塾]
- ^ No.50福澤先生と北里柴三郎
- ^ 公認会計士三田会
- ^ a b 〔慶應義塾豆百科〕No.53 「慶應義塾の目的」、慶應義塾大学
- ^ 〔慶應義塾豆百科〕No.60 独立自尊、慶應義塾大学。
- ^ 独立自尊の4字は、福澤諭吉の戒名「大観院独立自尊居士」にも取り入れられている。この名は、高弟・小幡篤次郎の撰によるとされる。
- ^ 慶應義塾豆百科No.17義塾社中
- ^ http://keio150.jp/english/ceremony/img/05.pdf
- ^ http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2008/081210/index.html
- ^ 『慶應義塾圖書館和漢圖書目録』『慶應義塾五十年史』参照
- ^ 研究
- ^ 週刊東洋経済2006年10月14日号P38塾長インタビュー
- ^ Times Higher Education-QS World University Rankings 2009
- ^ http://www.mines-paristech.fr/Actualites/PR/Archives/2007/
- ^ 国立情報学研究所・トムソンサイエンティフィック調べ2009年朝日新聞出版
- ^ 慶應義塾大学に対する相互評価結果ならびに認証評価結果
- ^ 慶應義塾豆百科 No.49 体育会の創設
- ^ 日吉台地下壕保存の会
- ^ 小泉信三は昭和24年『共産主義批判の常識』っを上程している。
- ^ 全国初の海軍地下壕施設を発掘慶応日吉キャンパス MSN産経2009年4月12日
- ^ 【特集】戦争と義塾
- ^ 慶應義塾豆百科No.12 授業料
- ^ 慶應義塾豆百科 No.30 演説の創始
- ^ 塾内では福澤先生の胸像の台座部分に足をかけたり腰掛けたりすると留年するという都市伝説が代々先輩から後輩に語り伝えられている[1]。
- ^ アインシュタインと慶應義塾
- ^ http://sankei.jp.msn.com/life/education/081108/edc0811082216008-n1.htm
- ^ 2009/1/29(木)(2/3~9) 東大・慶應レセプションの開催
- ^ 。東京工業大学と慶應義塾大学との間における学生交流に関する協定書
- ^ 慶應義塾大学経済学部との単位互換
- ^ 慶應義塾大学・京都大学・神戸大学によるMBA連携について
- ^ 慶應義塾豆百科No.51『三色旗』
- ^ 慶應義塾「ペンマーク」
- ^ 三田山上「赤煉瓦」の歴史 http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2002/236.html
- ^ 慶應義塾大学法学部 学部紹介 概要
- ^ まもなく相馬永胤ら講師陣が、慶應義塾から独立して専修学校(現・専修大学)を設立したため、慶應義塾夜間法律科は閉鎖することとなった。
- ^ 平成20年新司法試験法科大学院別合格者数等
- ^ 慶應義塾図書館 帳合之法
- ^ 慶應義塾豆百科 No.94
- ^ http://www.youtube.com/user/keiouniversity
- ^ No.24慶應義塾と歯科医学
- ^ 韓国の延世大学校との交流会がある
- ^ KEIO BUSINESS SCHOOL AACSB認証を受けている
- ^ L’ESSEC et Keio Business School lancent le premier double diplôme franco-japonais
- ^ MBAで初の二重学位、仏エセックと締結 慶大大学院日本経済新聞社、2008/09/0717:40更新
- ^ 日本ラグビーフットボール協会
- ^ 『週刊新潮』2008年10月30日号に、園遊会中止についての記事が掲載されている。
- ^ 慶應塾生新聞 - 今年度も園遊会存続へ~有志による非公式の開催
- ^ 『慶應塾生新聞』第449号
- ^ 学内の掲示や公式文書、式典などでは実際に「君」が用いられるが、一般と同様に、日常の会話においては学生が教職員を「君」と呼ぶことはない。
- ^ 慶應義塾豆百科
- ^ 小泉信三1966『私の履歴書』
- ^ 慶應大学医学部三四会 会則(PDF)
- ^ ボストン三田会会則
- ^ 島田裕巳 『慶應三田会―組織とその全貌』 三修社、2007年。ISBN 978-4-384-03941-2。
- ^ 塩川 正十郎-卒業生インタビュー
- ^ [慶應義塾の時間 http://blog.radionikkei.jp/recruit/48.html]
- ^ 金美齢; 月刊『自由民主』2002年12月号 (12月 2002年). "李登輝さんは日本に悪いことをしたのですか" (日本語). 金美齢ホームページ. 自由民主党. 2008-12-01 閲覧。
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