歌舞伎
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歌舞伎(かぶき)は、日本独特の演劇で、伝統芸能の一つである。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。
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[編集] 語源
歌舞伎の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代のおわり頃から江戸時代のはじめ初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることをさした語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年-1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。 寛永年間(1624年-1643年)に遊女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字にかわって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。
[編集] 歴史
[編集] 江戸時代の歌舞伎
慶長8年 (1603年) に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国が歌舞伎の元祖といわれている。阿国は出雲大社の巫女だったとも河原者でもあったというが、定かではない。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。このころは能舞台などでおこなわれており、歌舞伎座の花道はここから来ていると考えられる。
阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎がおこなわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は寛永6年 (1629) に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから慶安5年 (1652) に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となった。そのため、歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じる。それは江戸時代の文化の爛熟のなかで洗練されて完成し、独特の美の世界を形成するに至っている。
江戸時代の歌舞伎は成立の過程から歌舞伎踊りと歌舞伎劇に分けられるともいう。前者は若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊り(若衆歌舞伎は曲芸なども見せていたといわれる)を指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある(歌舞伎舞踊の項目も参照)。一方、後者は自然に現代に見られるような舞踊的要素を備えた演劇となった。若衆歌舞伎が禁止される際に、幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたこともその一因となった。つまり幕府は舞踊主体の公演は売色などをともない、風紀上望ましくないと考えていたのである。演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、歌舞伎狂言とも呼ばれる。引き幕によって時間を区切るという演出は物語に時の流れを自然に導入し、複雑な劇の展開を可能にした。また、客席を貫いて歌舞伎役者が登場・退場する花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、またセリ(迫り)と宙乗りにより三次元性(高さ)を獲得し、高度な演劇へと進化した。
江戸時代後期の文化文政時代までは、上方(京・大坂)が歌舞伎の中心だった。それは上方が中心だった人形浄瑠璃から書き換えられた演目の数からもわかる。
元禄時代には「西の藤十郎・東の團十郎」と江戸にも名優が登場し、江戸歌舞伎の萌芽が見て取れる。京の坂田藤十郎は細やかな情を表現する和事芸を、そして江戸の初代市川團十郎は猛々しい荒事芸をそれぞれ創始し、江戸の荒事と上方の和事という今日まで受け継がれる芸風の違いが生じた。
近松門左衛門が大坂・竹本座の座付作者となると、上方を中心として人形浄瑠璃が全盛となり、上方では歌舞伎は低迷した。その後、宝暦・天明・寛政になると上方歌舞伎では女形による舞踊が登場し、桜田治助、並木五瓶の作品が人気を呼んだ。また、この時期に回り舞台が発明された。
やがて、文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が江戸で多くの作品を創作し、江戸三座を中心に江戸歌舞伎の全盛期が到来する。しかし、天保年間には鶴屋南北や人気俳優らが他界し、天保の改革で、大火を契機に江戸三座は猿若町(現在の浅草界隈)へ移転を命じられ、海老蔵(後の七代目團十郎)らは贅沢禁止令違反で追放されるなど、幕府の政策から一時退潮を見せた。その後幕末から明治のはじめにかけては、河竹黙阿弥が多数の作品を創作した。
このような歌舞伎狂言は、江戸時代には単に芝居と呼ばれ、出演者を「歌舞伎役者」と呼ぶ。歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)と区分されさ身分上差別された[2] が、反面各地への通行に便宜を与えられた。武士階級の者は江戸幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止した。
[編集] 明治以降の歌舞伎
明治になっても相変わらず歌舞伎の人気は高かったが、海外の演劇事情を知った知識人などからは、その内容が文明国にふさわしくないのではないかという声も上がるようになった。歌舞伎では物語の背景や人物設定が決して簡単明瞭なものではなく、また内容も仇討ち・お家騒動・心中立などといった「前近代的」なもの(と当時は認識された)が多く、しかも盗賊・侠客・悪家老などを讃美するものあり、筋書きも荒唐無稽、そしてそれを宙乗りや早替わりなどといったケレン(外連)の演出で補うなどというのは、(彼らが信じる西洋式の)演劇の本来あるべきかたちをないがしろにするものではないか、といった批判が噴出したのである。
たしかに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。また仮に「通し狂言」を上演したとしても、そもそも歌舞伎には一日のうちに時代物と世話物、荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野をくまなく網羅するというきまりごとがあるため、例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の助六が実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ武士の曾我五郎(鎌倉時代に実在した人物)だったりする必然性があった。こうした歌舞伎を愛する者にとってはあたりまえな設定も、洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。そしてそもそも作者と役者の双方が演出家の役割を兼ね、さらに「お家芸」という口伝がものをいう歌舞伎は、脚本家・演出家・俳優の役割が明確に分担されている西洋演劇を見慣れた者たちには混沌と混乱にしか見えなかった。文明開化を謳歌する明治という時代は、こうした者たちの意見が問答無用で通った時代だった。
このような批判を受けて、演劇改良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動が起こった。これは明治政府の文明国の上流、中流階級が観劇するにふさわしい演劇の成立を目指す目論見ともかさなり、政治家を巻き込んだ運動となった。この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。また新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立したこともこの時代に特筆すべきことといえる。
このような運動の中で創作された歌舞伎演目は、最初、河竹黙阿弥らの旧来の作者や福地桜痴ら文化人によって、歴史的事実をありのままに演じる活歴物や、西洋風の新しい風俗を描いた散切物などが創られたが成功しなかった。その後、俳優の芸よりも脚本を主体とした新歌舞伎と呼ばれる多くの作品が昭和の戦前にかけて生まれた。しかし歌舞伎愛好家の支持を得られず、今日でも上演される作品はあまり多くない。
また、明治の名優九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎が古典の型を整備。大正には二代目市川左團次が埋もれていた古典の復活を行い、上方では初代中村鴈治郎が和事の芸を大成するなど従来の作品の見なおしも行われた。昭和には六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門、十五代目市村羽左衛門、二代目實川延若、三代目中村梅玉など多くの名優が活躍し今日の歌舞伎に大きな影響を与えた。その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈するかたちで二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに歌舞伎界の封建制的な部分に反発して昭和6年 (1931) には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立される。
[編集] 第二次大戦後の歌舞伎
太平洋戦争の激化にともない劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われ歌舞伎の興行も困難になり、戦災による物的・人的な被害も多かった。
終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年 (1947) 11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。
1950年代、人々の生活に余裕が生まれ娯楽も多様化しはじめた。プロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画やテレビ放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。
そのような社会の変動の中、昭和37(1962)年の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復する。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。国内の興行も盛んとなり欧米諸国での海外公演も行われる。
戦後の全盛期をむかえた1960~1970年代には次々と新しい動きがおこる。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。昭和40年(1965年)に歌舞伎が重要無形文化財に総合指定され(対象は伝統歌舞伎保存会)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。その後大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレンの要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、スーパー歌舞伎というより大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出した。また近年では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興[3] などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しいかたちの歌舞伎を模索する動きが盛んになっている 現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれと全く同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演していく試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。
なお歌舞伎は無形文化遺産保護条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載されており、2009年9月に予定される登録で世界無形遺産に指定されることが事実上確定している。
[編集] 歌舞伎狂言
現在に伝わる江戸時代に創作された歌舞伎狂言の演目は、大きく分けて人形浄瑠璃(文楽)の演目を書き換えたものと、歌舞伎狂言として創作されたものがある。人形浄瑠璃の演目を書き換えたものは丸本物と呼ばれる
内容としては、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした時代物と、その当時の世相を描写した世話物に分けられる。また、世界と呼ばれる約束事があり、演目の背景となっている物語の基本的な大枠が決まっていた。例えば「太平記の世界」、「平家物語の世界」、「義経記の世界」、「曾我物の世界」、「隅田川物の世界」などがあり、登場人物やその関係などは初めて見物する観客にとってもよく知っているなかで、観客は戯作者がどのように物語を展開させるかを楽しむようになった。
江戸時代の歌舞伎は日の出から日没まで上演した。これは当時の芝居小屋では天窓から照明の明かりをとらざるを得なかったため(歌舞伎の夜間上演が行われるようになったのは明治初年になってガス灯が使われるようになってからのことである)。朝方から夕刻までやっている歌舞伎は江戸っ子にとって一日がかりの娯楽であり、そのためもあって当時書かれた演目には概ね長大なものが多い。歌舞伎は必然的に、一日のなかで時代物を好む客も世話物を好む客も、どんな客をも楽しませような形態に進化していった。歌舞伎ではひとつの演目であっても時代物と世話物が幕間をはさんで交互に現れるといった、複雑な物語の展開をみせるものが少なくないのはこのためである。しかし江戸時代も後期になるとこのようにひとつの演目を通しで上演すること(通し狂言)は稀となり、一日のなかで人気演目の人気場面をつなぎ合わせて上演すること(見取り狂言)が一般化した。これが今日にも連なる歌舞伎独特の上演形態となっている。4つの狂言が上演される場合、かつては順番に一番目、中幕(なかまく)、二番目、大切りと呼ばれた。
[編集] 歌舞伎音楽
歌舞伎には、多彩な音楽が用いられる。これは「歌舞伎」が本来、最初から劇として作られた演目、人形浄瑠璃を原作とした演目、さらには舞踊といったさまざまの種類の舞台を総称したものであり、各分野に適応した音楽が存在するためである。大きく分けて歌物である長唄と語り物である浄瑠璃がある。
- 長唄
- 歌舞伎の伴奏音楽として発達した音楽。舞踊劇や舞踊で演奏される(例:『勧進帳』『連獅子』など)ことが多いが、歌舞伎劇中に演奏される例(『吉田屋』など)もある。また劇中音楽を担当し、黒御簾(くろみす)と呼ばれる舞台下手脇の専用の場所で伴奏音楽や効果音を演奏する。これを黒御簾音楽もしくは下座音楽という。効果音では、太鼓を使った水辺を表す音や鉦による寺院の鐘の音など、楽器を使ってさまざまな効果を表す。
- 義太夫節
- 人形浄瑠璃は、義太夫節(浄瑠璃の一種)の演奏に合わせて劇が進行する構成であり、歌舞伎でも人形浄瑠璃から移入した演目(『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など)は同様に義太夫節が演奏される。人形浄瑠璃では登場人物の台詞と状況説明を全て義太夫節の太夫(語り手)が行うが、歌舞伎での台詞は基本的に役者が担当し、太夫は状況の説明のみを語ることになる。このため、歌舞伎における義太夫節を「竹本」(チョボ)といって区別することがある。義太夫狂言での義太夫節は主に舞台上手に専用の舞台(「床」という)で演奏する。
- 常磐津節・清元節
- 共に浄瑠璃の一つ。大坂で発展した義太夫節に対し、これらは江戸で発展したもので江戸浄瑠璃と呼ばれる。重厚な義太夫節に比べ軽妙洒脱な芸風が特徴で、清元節は更に繊細な持ち味を備える。舞踊劇や舞踊で演奏される。ぞれぞれ、常磐津節・清元節を参照。(常磐津節『関の扉』『戻駕』、清元節『落人』『保名』など)
黒御簾や床以外での演奏は「出囃子」または「出語り」といい、舞台に置かれた台に座って演奏される。常磐津や清元は基本的にこの形になる。また、各流派の演奏は単独で行われる他、一つの演目で違う流派が順番に演奏を担当する演目(『京鹿子娘道成寺』…義太夫節の後長唄)や、合奏をすることもある。舞踊劇『紅葉狩』では常磐津節、長唄、義太夫節が合奏しこれを三方掛合いという。また、長唄や浄瑠璃各流派は、歌舞伎公演のほか日本舞踊の伴奏や単独での演奏会も行われており、単立の芸術としての側面もある。
[編集] 外題と通称
歌舞伎の演目の題名のことを外題(げだい)という。「芸題」(げいだい)が詰まって「げだい」になったとする説もあるが、古代から中世にかけては絵巻物の外側に書かれた短い本題を「外題」、内側に書かれた詳題を「内題」といっており、これが起源だとする説もある。
外題はもともと上方歌舞伎の表現で、江戸歌舞伎では名題(なだい)といっていた。こちらにも「内題」(ないだい)が詰まって「なだい」になったとする説があり、上方の「外題」と江戸の「名題」で対になることが、絵巻物起源説の根拠となっている。
外題には縁起を担いで伝統的に「割りきれない」奇数の字数が好まれる。このため『義経』や『四谷怪談』のようにどうやっても割れてしまう字数には、あえて「千本櫻」や「東海道」などの奇数の字を付け足して『東海道四谷怪談』や『義経千本櫻』などいった長い外題とした。しかも作者や興行主は当て字や当て読みを駆使して粋を競ったので、外題には凝った漢字5文字か7文字のものに長大な読みを無理に付けたものが多く、今日のわれわれから見ると字面だけでは何と読めば良いのか分らないようなものある。このため5文字以上の外題がついた演目には、より親しみやすい通称がついていることも多い。
- 『都鳥廓白波』(みやこどり ながれの しらなみ) →『忍の惣太』(しのぶの そうた)
- 『大塔宮曦鎧』(おおとうのみや あさひの よろい) →『身替り音頭』(みがわり おんど)
- 『慙紅葉汗顔見勢』(はじ もみじ あせの かおみせ) →『伊達の十役』(だての じゅうやく)
- 『刈萱桑門筑紫𨏍』(かるかや どうしん つくしの いえづと) →『刈萱同心』(かるかや どうしん)
- 『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ) →『白浪五人男』(しらなみ ごにんおとこ)
- 『与話情浮名横櫛』(よはなさけ うきなの よこぐし) →『切られ与三』(きられ よさ)
- 『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ) →『葛の葉』(くずのは)
また歌舞伎は通し狂言として上演されることが稀で、通常は各演目の中から人気のある場面(段・場・幕など)のみが単独で上演されるが、その場合、外題でも通称でもその場面本来の名称でもない、全く別の通称が用いられることがある。
- 『心中天網島』「天満紙屋内」の段 →『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)
- 『国性爺合戦』二段目「獅子ヶ城楼門の場」→『楼門』(ろうもん)
- 『楼門五三桐』二段目返し「南禅寺山門の場」→『山門』(さんもん)
- 『平家女護島』二段目「鳥羽の作り道の場」 + 二段目切り「鬼界が島の場」→『俊寛』(しゅんかん)
- 『義経千本桜』四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』(よしのやま)
- 『義経千本桜』四段目切り「河連法眼館の場」→『四ノ切』(しのきり)
なお返しとは明るいままで幕を引かずに場面が換わるところ、切りとは幕切れ前に舞台が盛り上がるところをいう。『義経千本桜』の四段目の切りは派手な演出で有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。
[編集] 歌舞伎に由来する語
- 大向うをうならす(うならせる) - 大向うに座る目の肥えた芝居の見物客の賞讃を博する。転じて、人々の人気を集める。
- 十八番(おはこ)
- 差金(さしがね) - 蝶や鳥などを舞台上で表現する場合に、小道具で創り、後見(舞台上で補佐する役。黒衣のときもある)が長い棒にさして動かす。この小道具一式を差金と呼ぶ。また人形浄瑠璃でも人形を動かす部分に差金と呼ばれる部分がある。
- 黒子(くろこ)、黒幕(くろまく) - 歌舞伎の黒幕は通常夜を表すために用いるが、人形浄瑠璃の黒幕は舞台を操る者をその陰に隠すために用いる。そこから歌舞伎でも、舞台裏から影響力を行使して舞台を操る興行主・金主(投資者)・芝居茶屋などのことを「黒幕」と呼ぶようになった。そもそも黒という色に悪の意味を絡ませるのは近代になってからの連想で、当時はむしろ御公議の「幕府」「幕閣」や大相撲の「幕内」などの語にみられるように、「幕」という語には「中に立ち入り難く、様子が見えにくい」という語感があった。ここから「外部の者には実情がよく分からない」という意味で、今日の「政界の黒幕」のような使われ方がされるようになったと考えられている。
- 二枚目・三枚目(にまいめ・さんまいめ) - 一座を構成する配役の番付の上で、思慮分別をわきまえた貫禄のある役を勤める立役の看板役者を「一枚目」、美男で人気が高い若衆役を勤める役者を「二枚目」、面白おかしい役を勤める道外方を「三枚目」に掲げていたことが語源。現代でも日常的に用いられる言葉として残っている。
- 幕切れ(まくぎれ)・大詰め(おおづめ) - それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、通し狂言で最終幕にさしかかる頃の盛り上がりを大詰めと言った。現在でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレースも大詰めを迎えた今週」のように使用される。
- 千両役者(せんりょうやくしゃ) - 名優とよばれる歌舞伎役者の収入は1000両超えたことから、転じて素晴らしく活躍した人の意味。二代目市川團十郎(1688年-1757年)が1721年(享保6年)に、初の年収1000両を得たという。
[編集] 伝統歌舞伎保存会
社団法人伝統歌舞伎保存会は歌舞伎関係者のうち技能に優れたものを会員として構成されている団体。重要無形文化財の総合指定を受けている。2007年10月25日現在の会員数は162名。
[編集] 劇団前進座
→ 詳細は「前進座」を参照。
毎年五月の国立劇場公演を中心に、京都南座での初春公演、2月大阪国立文楽劇場公演、初春と秋の前進座劇場公演、秋の名古屋公演など都市部のみならず、地方での巡業公演も積極的に行っている。公演は歌舞伎のみならず、歴史劇、現代劇や子ども向けミュージカルなど多彩。
[編集] 地芝居
→ 詳細は「素人歌舞伎」を参照。
専門の演者による公演の他、地域住民が祭礼の奉納行事などとして江戸時代以来の伝統に則った芝居が日本各地で上演されている。これらを地芝居と呼び、歌舞伎と人形浄瑠璃のどちらかかが演じられる事が多い。歌舞伎では農村で行われる芝居(農村歌舞伎)や都市における曳山の上で芝居(曳山祭り)等がある。地芝居における演目の多くは専業の演者による公演と重なり、その影響が強く見られる。しかし中にはその地域独自の演目を備えるなど、個性的な発展をみせている公演も存在する。
[編集] 関連項目
- 一覧
- 周辺文化
[編集] 関連書
- 服部幸雄 『大いなる小屋』 平凡社 ISBN 458226011X
- 河竹登志夫 監修 古井戸秀夫編 『歌舞伎登場人物事典』白水社 ISBN 4-560-03596-2
- 神山彰 『近代演劇の来歴』歌舞伎の「一身二生」 森話社 ISBN 4-916087-64-X
- 中村哲郎 『歌舞伎の近代』作家と作品 岩波書店 ISBN 4-00-022466-2
- 佐藤孔亮『歌舞伎にみる日本史』小学館 1999年 ISBN 9784093860208
- 赤坂治績『江戸の歌舞伎スキャンダル』朝日新書 067 朝日新聞社 2007年 ISBN 9784022731678
[編集] 脚注
- ^ 観客席の中央を「平土間(ひらどま)」、その両側の一段高くなっているところを「高土間(たかどま)」、さらにその外側を「鶉(うずら)」、そして場内をコの字のように囲む二階席を「桟敷(さじき)」といった。二階正面の舞台からは最も遠くに位置する桟敷は、特に「向桟敷(むこうさじき)」と呼ばれた。そこに陣取って舞台に掛け声をかけるのが大向うである。図の左側の継ぎ目あたりに、舞台よりも奥の観客席が見える。その1階が羅漢台、2階が吉野である。
- ^ 盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』・雄山閣出版 ・1994/02/05 ISBN: 9784639004363
- ^ 2005年三代目中村鴈治郎が、231年ぶりの上方歌舞伎の大名跡・坂田藤十郎を襲名した。
[編集] 外部リンク
- 歌舞伎上演元による解説
- 日本芸術文化振興会(国立劇場)・歌舞伎への誘い 歴史や表現様式、演目などを概観。動画資料も。
- 国立劇場・文化デジタルライブラリー 演目の解説や上演記録など詳細な記録と解説。
- 歌舞伎公式ウェブサイト 松竹による総合情報、上演情報もあり
- 歌舞伎 今日のことば 上記ウェブサイト内の、歌舞伎に関する解説ページ
- 上演情報
- 松竹 歌舞伎座、南座などの上演情報
- 劇団前進座
- 国立劇場
- 歌舞伎フォーラム(通称 江戸博歌舞伎)
- 伝統芸能Live! 各ジャンルの上演情報一覧
- 関連団体
- マスコミ・メディア
- 東京新聞 放送芸能 > 伝統芸能一覧
- 歌舞伎チャンネル 専門テレビ局(CS放送・ケーブルテレビ向け)
- All About Japan「歌舞伎」
- 歌舞伎モバイル 携帯端末向けの情報
- 研究機関
- 個人サイト
- 渡辺保の歌舞伎劇評 演劇評論家渡辺保による毎月の劇評
- 歌舞伎の元祖は出雲阿国
- 歌舞伎のおはなし キーワード形式で、歌舞伎に関する知識を提供
- 知らざぁ言って聞かせやしょう!歌舞伎の基本
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