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金大中

1/11

出典: フリー百科事典『)』

金大中 Nobel prize medal.svg
김대중
金大中

任期:1998年2003年

出生:1925年12月3日[1]
全羅南道新安郡
死去:2009年8月18日(満83歳没)[1]
ソウル特別市
政党:新千年民主党
配偶:李姫鎬
金大中
各種表記
ハングル김대중
漢字金大中
平仮名
(日本語読み仮名)
きんだいちゅう
片仮名
(現地語読み仮名)
キムデジュン
ラテン文字転写Gim Dae-jung/Kim Tae-jung
  

金大中キム・デジュン1925年12月3日[1] - 2009年8月18日)は、大韓民国政治家、第15代大統領(在任:1998年-2003年)。本貫金海金氏は「後廣」(フグァン、후광)。ニックネームは忍冬草。略称はDJカトリック教徒で、洗礼名はトマス・モア。日本時代は豊田大中(-1945年)。

目次

[編集] 来歴

[編集] 政界入り

1925年全羅南道荷衣島(現在の新安郡)生まれだが、本貫はこの地域と対立していた慶尚道の金海市。1943年木浦公立商業学校(現全南第一高校)卒業、慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。運送業を経て、1954年総選挙で国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、1959年1960年と立て続けに落選を経験した。1961年に補欠選挙で国会議員へ初当選しているが朴正煕による軍事クーデターにより無効となっている。その後は野党政治家として活躍し、1963年1967年第6代第7代、国会議員選挙で連続当選し、とうとう1970年9月に新民党の大統領候補に指名される。翌1971年大統領選では現職の朴正煕に97万票差にまで迫った。この大統領選の直後、交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節の障害を負うことになる。

[編集] 民主化運動家として

朴正煕による十月維新の後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年(昭和48年)8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで何者か(複数)によって拉致され、行方不明となった。この犯人たちは、謀殺を意図した韓国中央情報部 (KCIA) であった事が、後に判明するが、拉致後、日本から出港した船の上で、殺害直前の状況になった際、軍用機が船の上を旋回し、殺害を中止させている。その後、ソウルの自宅に現れ、ソウルで軟禁状態に置かれた(金大中事件)。1976年3月にはらと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、1978年3月に釈放される。1980年2月19日には公民権を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で首謀者として死刑判決を受ける。このことに対して、当時の鈴木善幸首相は、11月21日に崔慶禄駐日大使と会談し「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に死刑判決に対する国際的な批判が強まり、1982年1月23日に閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。

1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが[要出典]3月6日全斗煥大統領により政治活動を解禁される[2]1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で平和民主党を結成し、盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これをもって金大中は政界引退を表明した。その後研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた1995年新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。

[編集] 大統領として

1997年の大統領選挙では与党ハンナラ党李会昌、ハンナラ党内での予備選に敗退した李仁済を相手に戦った。与党の強力な集票力に当選を危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び(いわゆるDJP連合。ちなみに両者は共に金海金氏である)、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への対応能力をアピールした。結果、自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得、金鍾泌の地盤である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。

大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機はつづいていた。金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れたうえで、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子現代自動車の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。そのため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた(DJノミクス)。

ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2000年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:

北朝鮮に対しては太陽政策と称される宥和・関与政策を志向した。2000年に、北朝鮮の平壌金正日との南北首脳会談が実現。南北首脳会談などが評価されノーベル平和賞を受賞した[3]

また、その後に会談実現のために金大中大統領から現代グループを通じて4~5億ドルを金総書記に渡していたとされる。

太陽政策は任期中、宥和政策として機能したが、関与政策としての役割を果たしたかどうか議論の余地がある。

自ら中央情報部に拉致された金大中だが、1999年には国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設した。

朴正煕、全斗煥、盧泰愚、金泳三と4代続いた慶尚道地域出身の大統領から全羅道地域の金大中へ権力が移ったことにより地域対立の打破が期待されたが、当選時の経緯や、共に与党である新政治国民会議と忠清道地域に影響力を持つ自民連の統合が頓挫したことにより、この分野では目覚しい成果を上げることが出来なかった。

[編集] 大統領退任後と晩年

退任後は政界を引退した。延世大学校付属の金大中図書館設立に携わるなど政治とは距離を置き、研究生活を送っていた。併合時代の朝鮮における日本語教育を受けており流暢な日本語を話すことができたため、非公式な場における日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じる事が多かった。韓国国内での日本大衆文化開放を始めたのは、金大中政権からである。

2006年6月に北朝鮮を訪問する予定であったが、北朝鮮のテポドン発射問題によって取り消された。

2008年11月27日に、民主労働党指導部に対して「民主労働党民主党・市民社会団体がしっかりと手を組んで広範囲の民主連合を結成し、逆走を阻止する闘争をすれば必ず成功するはずだ。李明博政府の非核・開放3000政策は失敗した米ブッシュ政権の政策である」と述べた[4]

2009年7月13日に三たび持病の肺炎を患う。同年8月18日ソウル市内延世大学校医療院セブランス病院で死去。85歳だった[5]。また、盧武鉉の死去(同年5月)と同じく、韓国の大手サイト(ネイバーダウムネートYahoo!GoogleMSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。太陽政策を推し進めた大統領経験者が4ヶ月足らずで相次いで死去したことになる。

2009年8月23日、ソウル市の国会議事堂前広場にて、韓国史上二人目の国葬に処された[6]

[編集] 対北送金疑惑

金大中は南北首脳会談の直前に現代グループが北朝鮮へ5億ドルを違法に送金をするのを容認した。現代グループはこれにより北朝鮮における事業の権利を得た。このため首脳会談は送金の見返りだったという見方があり、ノーベル賞受賞に疑問を投げかけた。

2004年3月28日、最高裁判所は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への不法送金事件で起訴された林東源元国家情報院長、李瑾栄元産業銀行総裁、朴相培元産業銀行副総裁、金潤圭現代峨山社長に対し有罪を確定したと発表。判決文では「高度な政治性を帯びた国家行為に対し、司法審査を抑制するという統治行為概念は認めるとしても、適法な手続きに沿うことなく、北朝鮮に4億5000万ドルを送金した行為自体は法的審査の対象となる」としている。[7]

2004年6月12日のMBCのインタビューに金大中は「対北送金に対する特別検事捜査は、それ自体やってはならないことだった。国政を遂行していれば、外部には知らせられない多数の問題がある。これを一々特別検事が捜査し、問題視すれば、国政は難しくなる。1億ドルを提供しようとしたのは事実だが、実定法では難しい部分があり、政府レベルでは提供できなかった。現代が通信に関する権利を北朝鮮側から提供される対価として支払ったと聞いている」と関与を認めた。[8]

[編集] その他

  • 大統領になるまでの自宅軟禁、投獄期間は約10年に及ぶ。
  • 大統領在任中に死刑判決を受けた北朝鮮の工作員辛光洙(シングァンス)を恩赦で釈放した。また、18ヶ月しか服役していない殺人犯朴琦緖(パクキソ)を釈放した。
  • 日本の新聞は、朝日新聞を読んでいたという。
  • 2001年3月7日ワシントンで行なわれた米韓首脳会談で、米国ブッシュ大統領に「this man(この人)」と表現され、一部の韓国人ネチズンの間で論議を呼んだ。
  • 日韓ワールドカップ決勝戦・閉会式において、貴賓席着座の際に金大中が後に続く天皇に進路を譲らず、皇后と共に自分の後ろを通らせたことに対し、日本側から批判の声があったとされる。また、開会式でも「FIFAワールドカップ・コリア」と、単独開催宣言とも受け取れる発言を行っている。[9]
  • 漢字復活論者。2000年元日に、漢字交じりで「千年 希望」と書き初めし、全国漢字教育推進総連合会から賞賛された。
  • 国会議員を務めた1970年に、当時24歳の女性(後に自殺)との間で婚外子をもうけたと、2005年4月、韓国のSBSテレビが報道した。国家情報院はこの問題を「1号懸案」と呼び、関係者の盗聴など特別な注意を払っていたという。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ a b c 戸籍上の生年月日である。自叙伝では1924年1月6日生としている。読売新聞8月18日付記事参照。なお韓国語版Wikipediaでは1924年の日付を採用している。
  2. ^ 今日の歴史(3月6日) 聯合ニュース 2009/03/06
  3. ^ ただし会談の一方の当事者である金正日氏には賞は授与されていない。
  4. ^ 金大中元大統領「李大統領、南北関係を意図的に破たん」 中央日報 2008.11.28
  5. ^ 金大中元大統領が死去
  6. ^ “金大中・元大統領の国葬、2万人が参列”. 読売新聞. (2009-08-23). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090823-OYT1T00554.htm 2009-08-23 閲覧。 
  7. ^ 「対北送金」 6被告の有罪確定 朝鮮日報 2004/03/28
  8. ^ 金大中氏「対北送金の捜査すべきでなかった」 朝鮮日報 2004/06/14
  9. ^ 2002ワールドカップ天皇皇后両陛下入場場面動画

[編集] 外部リンク

先代:
金泳三
第15代大韓民国大統領
1998年-2003年
次代:
盧武鉉

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